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Talk to think,go.(覚書)

 合計239歳のお茶会は続いている。

「行きの道の途中で馬が倒れていてね、その時はまだ生きてたの」
「帰りに見たら死んでいて」
「家に帰ってから、妹と二人でもう一度見に行ったら、馬は骨だけになってたの」
 肉だけ持ってかれてたと。
 戦争中の話らしい。


「近所の商店が火事になると、飛んでいって焼け跡から岩塩を持って帰ってきたり」
「砂糖屋が焼けた跡からは焦げた砂糖の塊を」
 子どもは、そういう事に鼻が効いたらしいけれど、子どもだから許されていたのもあるんだろうなあ。

「配給でバケツ一杯のレーズンをもらった」
「学徒動員の労働で、食事が出るのが有りがたくてね。手作りの春雨に肉が入っていて、本当においしかった。春雨は沢山あったから、お弁当箱に詰めて帰ったなあ」
 どこか神戸らしいエピソード。

「周りの大人が八月までの辛抱や、と言ってたのね」
 終戦直前の話。八月以前に、近く戦争が終わるという事を知っていた、そんな情報があったというのだ。港町だから色んな筋から色んな情報が入ってきていたんだろう。けれど、もしそうなら、何故、原爆は落とされたのだろう?

「昔は海が今より近かったから、家から水着のまま泳ぎに行ったの、夏は」
「煎ったソラマメを布袋に入れて腰に下げておくと、海で泳いでるうちにふやけて柔らかくなってくるから、それを帰ってから食べるんだ」
 暑い日の楽しみ方が色々あったかつての夏。

 昭和30年代に入ってからは、テレビが家にあったので、近所の子どもらが力道山を見に家に上がってきていたらしい。
 テレビを見にくるついでに机の上の晩ごはんのおかずまで拝借していくのがイヤだったという。たぶん、美味しそうなおかずだったんだろうな。

 家の外は色々な事が起こる世界で、そこに足を運べば手に入るものがあったり、体験できる事がたくさんあって、それにはお金は必ずしも必要なかった。
 身一つで触れられるもので満ちていた。義務としての体験も沢山あったし、遠くまで、山の上まで、歩いていかなければならなかったりもしたが。
 お互いの事情や気持ち一つで許しあえたところもあったみたいだ。こうしなきゃとかはなくて、お互い様で、ゆるくやったりやられたりしていたのだろう。
 そんな塩梅が効いていた昔の関わりは、今ほどプライバシーとかにはかまっていなくて、各家庭の事情もみんななんとなく知っている、みたいな感じだったのかもしれない。
 常に他人の目がある地域社会は窮屈な反面、困った時には助かる部分もあったのかもしれない。
 

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