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なぜおにぎりは三角なのか?

イントロダクション

鬼婆と鬼爺について、色々と考えるだけの人になってしまったうえに、その史料をひたすら収集、熟読、分析している日々を送っていたために、すっかりとnoteのことを忘れていた。
今これを書いている6月18日は、日本最古のおにぎりの化石がみつかった。ということで、「おにぎりの日」とのこと
では、すこしだけおにぎりについて話していこうじゃないか

おにぎり・おむすび論

ちまたでは「おにぎり」と「おむすび」とは別物だとして扱っているケースがある。
つまりどういうことかというと、形で区分しているのである

おにぎり→非三角形→握る飯が原型なので、形はどうでもいい
おむすび→三角形→(米を)結ぶことから三角形のものが多い

と、いうのが おにぎり協会の見解であるが、あくまでもこれは俗説であって、その限りではないと協会も述べていることを合わせてお伝えしたい

米を結ぶと三角形になることが多い。というのが、個人的にいささか謎である。
結ぶという言葉の使用用途は、紐を結ぶ・縁を結ぶなど、AとBを繋ぎ合わせるということである。米と米を結び合わせていったら、気付いたら三角形になる道理がわからない。(屁理屈おじさん理論

山の神

さて、僕が常日頃言っている「箸にも棒にも掛からぬような💩サイト」
通称:いかがでしたでしょうか?サイト
などは、おにぎりは三角形のことが多い。と書かれているものがいくつかある。
頭痛が痛い。おにぎり協会と言っていることが真逆である。
頭痛を振りほどいて記事を見てみると、その多くが「おにぎりが三角なのは山の形を模したものだ」とある

いかがでしたでしょうか?サイトにはこの理由は以下のように書かれている

山の形の三角形にすると、神が宿る

山岳信仰というものがあり、山には神がいるとされる。
さらにこう続く

神様に食べてもらうために三角形にしている

ふたたび頭痛が痛い

神に模すことと、それを食してもらうために形を整えるのは、意味が異なるのではないか?

神と同じものを食べるという「神人共食」という考えは確かにある。神と同じものを食すことで、神の霊力を頂くという考えである。
では、その食事はどの様に提供されるか?一般的には膳で提供される。神人共食の有名な例は、新嘗祭や神嘗祭である。つまり、天照大神と天皇が食事を共にする祭りごとである。このときに握り飯がでた。という話をきいたことがない。まぁ、この場合の神は天照大神で、山の神ではないので、当然と言えば当然かもしれないが

では、山の神に食事を提供することはないのか?当然ある。しかし、その際、一般的な食事を作って提供するという風習があるだろうか?
多くの場合が、魚や果物など調理前の状態を供物としてささげるのが一般的ではなかろうか?
すると、わざわざ食べやすいように三角形にして山の神に捧げる。というのにはいささか疑問が残る
ちなみに、今取り組んでいる、鬼婆と同一視されやすい山姥は、元来山の神であり、山姥が様々なものを食べるというモティーフは、里の民の食べ物が珍しく、それを羨ましく思うから食す。という考えがある。
だから、山姥退治に餅に模した石が出てくることが多いのはこのことである。(深くは別の機会にやりたいとおもう

とかく、山の神に捧げる供物だからといって、形を整える理由は考えにくい。同様に、神人共食のために三角形に握ったおにぎり・おむすびを用意するという事も考えにくい。

搏飯

そもそも論「おにぎり」「おむすび」という言葉はいつからあるのか?
130年ほど前の明治25年に刊行された「日本大辞典」でこの二つを引いてみるも、残念ながらどちらも見つけることができなかった。
「お」は「御」で丁寧語とし、にぎり・むすびを見てみると、「にぎりめし」という言葉を見つけることができる。意味はそのままで、「握り固めた飯」
むすびに関しては、ニギリメシ=「搏飯」という言葉が書かれている。
搏飯。初めて見る方もいるだろうが、これで「むすび」と読む
そう、おむすびのむすびは、搏飯という字を書くのである。

この搏飯という単語。古くは盂蘭盆経のなかに記されている。
六神通を得た目連が、餓鬼道にいる両親が痩せこけているのを知り、すぐさま鉢にご飯をもり、赴いて母にわたすと、母は喜んで鉢のご飯を受け取り、左手で鉢をおさえ、右手でご飯を「搏飯」とし食そうとするも、それは燃え炭になって食べることができない。

この一節からわかることは鉢に入ったご飯を手で掴んで食べようとしているそれが「搏飯」といっているので、ここに形を見出すことはできない

仮に形がきまっていたとしても「搏飯」はニギリメシのことだといっているわけだから、つまり、三角形だろうが俵型だろうが、それはニギリメシである。逆もしかりで、ニギリメシが三角なら搏飯も三角であろう。

人間は愚かであるから、同一のものに「おむすび」と「おにぎり」別々の名称があることに違和感を感じるのであろう。なので、その形をみて、三角ならこちらだとか、それ以外はあちらだとかそういう事がしたかったのだろう

名前が沢山あるも、形が統一されているために、大判焼き・回転焼き・御座候・今川焼は混乱をきたしてしまっているといえよう

魔除けの意

三角だろうがそうでなかろうと、おむすびもおにぎりには変わらない。という結論に話していても面白くないだろうし、反論だけするだけして話を終えるのも釈然としないので、なぜ三角の形をしているのか?という個人的に好きな仮説を一つ提案して、今日はおわりたいとおもう。

依田學海の著書「譚海」二巻の竒僻 の章にこんなことが書かれている。

印以三角形為缺名菖蒲華 江戶白銀里人馬肝善徘歌以為業愛菖蒲苇听着衣 服皆依之壁衣屏子莫不擬其色與形焉。傳飯非三角形不食飲器什具非菱子形不用也

正直…漢文は苦手なのだが(このとき義務教育に反抗的で逃げ回っていたせいという、お前のせい案件ではあるが)
要約すると

江戸の人々は菖蒲の花の名前を「三角形」と呼んでいる。
彼らはそれがすきで、服に描いたりその色を真似し、染色したりしている。
ご飯が三角形でないと飲食しない。食器なども菱型のものはつかわないといった。

真偽のほどはさだかではないが、三角形になっているご飯は、菖蒲の花を模したものだと言っている。
実際に見てみよう

花菖蒲

花菖蒲の花であるが、言われてみたら逆三角かもしれない。
では、なぜ菖蒲なのか?端午の節句にも用いられる菖蒲は、魔除けの効果があるとされている。
ご飯を三角形にする理由は、これが菖蒲の花だとしているのである。

当時、細菌や雑菌というものの存在は認知されていなかった。食べ物が腐ったりすることは「悪い気に当たったから」などという事が言っていたなんてことをいつぞや聞いた記憶がある。
つまり、菖蒲の花に飯を成型するとこで、そこに破邪のシンボルを添加しているということになる。これは山の神を模しているものだとか、そういうものではないのかもしれない
飯を三角にしようと言い出した人たちは、安全に握り飯を食べられるようにと願いを込めた。そういう話だったのかもしれない



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