現実と昔ばなしとの境界線(一次元性について)
イントロダクション
発端句から始まり、2つの結末句についてこれまで紹介してきた。
一つは「むかしむかしあるところに」という発端句の悠久の時限性を、ある一定の位置に収束させる。という効果があった。
もう一つは「むかしむかしあるところに」という物語の信憑性を強調させる効果があると考えられる。
実は、結末句はこれだけではなく、もう一つ重要な役目を果たすものがある。今回はそれについての解説をしたいとおもう。
一次元性
さて、3つ目の結末句を解説するにあたって、先に、とある発端句について解説をしたいとおもう。
「これはあったことか、なかったことか」
という発端句である。用例としてはこんな感じである。
「これはあったことか、なかったことか。むかしむかしあるところに・・・」
この発端句。これをつけることによって、とても重要な、あることについて回避できる効果があるとされている。それでは、なにを回避できるのか、一緒に見ていきたい。
日本各地に類話がある物語に「たにし長者(別名:たにし息子」という話がある。たにしとは、あの田んぼなどにいる、あのたにしである。類話によっては、カタツムリやナメクジ、カエルや貝などがある。この物語、要素を取り出してみると、このようになっている。
・子供のいない老夫婦が、神や仏に願掛けをすると子を宿す。
・その子供は「たにし」である。
・月日が流れ、たにしが老夫婦に「嫁が欲しい。」と言う
・信心深い嫁が見つかり、無事に、たにしは結婚する
・事故が起き、たにしが居なくなる。または、死んでしまう。
・たにしは立派な青年となって再び現れ、嫁と幸せに暮らす
さて、この物語の中で、学術的な側面から注目すべき点は、たにしが人語を話す。という点である。当然、たにしが人の言葉を話すことはない。犬や猫、馬や猿なども、人の言葉を話すことはない。が、昔ばなしの中ではそれが平然と行われている。しかも、彼らが人語を話していることに対し、登場キャラクター達は驚くことはなく、むしろ、普通の事のように接している。このことを昔ばなしの学問の世界では「一次元性」と呼んでいる。
では、一次元性とはなにか?至極簡単なことで、「彼岸と此岸(しがん)の境界がないこと」を、一次元性と呼ぶのである。
彼岸とは、あの世の世界のことである。此岸は、私達がいる現世のことである。学問上の昔ばなしの中での彼岸の世界には、鬼、妖怪、妖精、悪魔、魔女、巨人、そして、人の言葉を話す様々な動植物たちがいると考えられている。
本来、そのような世界の住人たちと出会うことはない。だから、彼岸と此岸は共に別々の世界であって、この状態のことを二次元性といってもいいだろう。しかし、昔ばなしの中では、この境界線があるようでないのである。
なので、人間の老夫婦からたにしが産まれてきても「願掛けが叶った」で済むし、たにしが人語を話していても不思議ではなく、また、たにしが人間の女性を嫁にしたいと言っても、老夫婦は拒否をせず、さらに、そのたにしの嫁とされる女性も「信心深い両親の願掛けが叶って授かった子」であるのなら、お嫁に行きます。といって、人外との結婚を快諾する。
これは我々の住む世界ではありえない。だが、こと昔ばなしのなかではそれが成立する。
だから「これは、あったことかなかったことか」という発端句が必要なのである。
歴史を遡れば、一般的に「民話」と呼ばれるような物語というのは、農作業や狩猟作業ができない閑散期に、大人が囲炉裏を囲み、冬の仕事をしているときなどに語られていた大人の娯楽だったのだが、それがいつからか、子供に対し語られるようになり、それは教訓話だと称されて、教育目的として使われるようになっていった。
しかし、ここに一つ大きな落とし穴があるといえる。それは子ども、特に小学校低学年までの年代は「言葉を理解する能力が未成熟である」ということである。それはどういうことかというと、その年代の子供達というのは母国語の修学途中で、言葉の持つ意味というのを正確に把握することが困難なのである(できない。というわけではなく。学習が追いついていない、経験値不足なだけなので、困難というのが正確だと思う)
その代わり、彼らはよく絵を描く。彼らは言葉を操る前に、まず絵を使って、自身の感情や見えている世界を表現し、大人たちに伝えようとしてくる。だから落書きをしたりする。自分の思いを伝えるために、彼らは絵を描くのである。
そのような未就学児たちに最適化された媒体というものが存在する。そう「絵本」である。絵本は文字ではなく、絵で伝える文学作品である。どうして、絵本の対象年齢が低いのかは、こういうところからも合点がいく。つまり、低年齢の子どもたちの理解というのは、文字理解ではなく、映像理解が主体だといえよう。つまり、語り部から昔ばなしを聴かされたとき、彼らは言葉をそのまま理解するわけではなく、映像に変換し動画的な理解をしている。実は、これが落とし穴なのである。
空想と現実の一次元性
もうおわかりであろう。つまり、発端句「これはあったことか、なかったことか」の効果というのは「これは、本当にあったかどうかはわからないけれど」と「いまから、嘘かもしれない話をします」と、前置きをしているのである。
大人であれば、語られる物語が現実的にあったことなのか、非現実的なのかを理解することは容易だが、頭の中で物語を映像化し、それを動かしながら理解していく子どもたちにとって、物語の世界と現実世界、空想と現実が1次元的な状態になりやすいのである。
それは物語が長くなればなるほど、魅力的な語り部であればあるほど、それは顕著に起き、頭の中で構築されていく映像は現実性を増し、彼らのなかで「しゃべる猫」や「腹太鼓で陽気なタヌキ」「人を化かすタヌキ」などが現実的になる。これを逆手に取ったのが「神隠し」いわゆる「天狗伝説」であろう。前回解説した「信憑性を強調する結末句」というのもここにもつながってくる。
川や山で遊んでいた子どもたちの誰かが、アクシデントで失踪してしまった際、それを「天狗の仕業」としてしまうことで、子どもたちの頭の中に映像として記憶されてしまったアクシデントが「天狗の仕業」と書き換わり、彼らの心のケアという面にも一役買っている。ということを唱える人もいる。
映像として理解している物語が「一昔前、本当にあったんだ」と結末句で念押しをされることで、その物語は空想から現実よりにシフトしていく。
しかし、その物語が子どもたちの記憶の中に残ってしまっては困る話などもある。「たにし長者」という物語は、事故でたにしが青年へと変化するわけだが、それを信じ、たにしを大量に殺してしまう子供が出てきてもらっては困るわけである(当時は、たにしは大切なタンパク源として食べていたりする。)
なので、発端句で「いまから嘘かもしれない話をします」と、事前告知をし、最後の結末句で「はい。嘘ですよ」と念押しをする必要性があるのである。たにし長者の結末句には、このようなものがついている。
・これでむかしのたねくっしゃり
この結末句には「物語の終わりを告げる」とだけあるが、効果としては催眠術師がかけた催眠術を解くきっかけのように、物語に没入し、空想と現実の境界にいる子供を、現実世界に引き戻す効果があると僕は考えている。その他の同様な効果のある結末句は
・どんとはれ
・とっぴんしゃらりんのぷー
などが代表的なものである。これらも物語を告げる役目もあるが「なーんちゃって」という意味があるとされていて「なーーんだ、作り話か」と現実世界に引き戻す役目があるといえる。
なので、結末句には大きく分けて以下の3つの効果があると考えられる
・物語の時限性を、ある一定の地点に移動させる。
・物語の信憑性を高め、現実味を増す
・物語は作り話だとし、それは現実ではないと強調する
それでは、先人の語り部たちは、実際にこういったことを考え、発端句や結末句を創作し運用していったのだろうか?その答えは、限りなくバツだと考えられる。生活のなかで彼らは少しずつ物語を改良し、それは重厚感を増し、それによる影響が少しずつでてくる。それを軽減するために、無意識的に結末句や発端句の運用をしはじめたのではないだろうか?
だから、「むかしむかしあるところに」という世界共通語のような発端句もあれば、その土地でしか通用しないものもうまれてきた。雑なまとめだが、これも、発端句と結末句の運用というのも、生活の知恵だったのかもしれない
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