網戸の中

あちらこちらにブログなど作ってはあまり投稿せず、というのを続けていたので、すこし書く場所を整理したかったのと、シンプルに文章だけをのせるところがほしいな、と思い、アカウントだけ作ってほったらかしていたnoteを使うことにした。
5月だし、天気もいいから、何か仕切りなおそうかなという気分になったというのもある。これまでのブログは、そちらはそちらで使うつもりです。

さいきんは家にいる時間が増えた。狭い部屋で、閉め切っているとどうにも空気がよどんでくるから、昼間はほとんどの時間窓を開けて網戸にして、外から風が入ってくるようにしている。週に何度か仕事に行くのと、スーパーでの買い物や散歩、ジョギングのために外に出るほかはずっとこの部屋にいるので、この網戸越しの世の中が、私の見る世の中の7割ぐらいを占める。

それでふと、網戸の中から、自分以外にはあまり関係のないことを書いてみようかという気になったのだった。
敢えて言うのも野暮だが、夏目漱石の『硝子戸の中』にかけた洒落である。
それぐらいのつもりで書き始めてしまったので、どのようなものになるかまだ判然としないし、いつまで続くかもやはりわからない。

漱石の新聞連載は、硝子戸の中から外を見渡しても特に何もないというような話から始まる。それに倣って網戸の中から外を見渡しても、やはり数え立てるほどのものはない。ベランダと向かいに並んだ建物と、その上に空が見えるというぐらいの、極めて単調で狭くて、ありきたりな視界だ。硝子戸の中から漱石が見た視界のほうが、まだ芭蕉や梅もどきの枝のような生きているものがあるだけいいような気がする。今のご時世なので、この部屋にひとが入ってくることももちろんない。
ただ、硝子戸と違うところを挙げるなら、当たり前だが網戸にしていれば外の空気が入ってくる。春の風が部屋の中を抜けていくので、この狭い部屋もどうやらこの窓の外のもっと広い空間とつながっているらしいというのがわかる。
その広い空間のほうはというと、漱石の時代とは多少様相が違うものの、今もなお大変多事である。そんな中で恐れ多くも「自分以外にあまり関係のない詰まらぬこと」を――漱石の場合であればこれは謙遜ということになるのだろうが、ざんねんながらここでは事実にすぎない――網戸の中で、私は書こうとしている。
ただ、こういう時でもなければ、そんな話を敢えて書く暇もなかったかもしれない。だからこそ書いてみようかという気にもなったのだ。

ちなみに、『硝子戸の中』の漱石よりは私の方が頻繁に外に出ているだろうと思われる。
この前、在宅勤務の終わった時間にちょっと網戸を開けてベランダに出てみた。向かいの建物がうすい橙色で覆われて、世の中大変なことが起こっているというのが冗談かと思うような、静かで、やはりありきたりな夕暮れだった。



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