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娘の生と死と

長女がお空に行ってからもうすぐ2年。娘の死について、そして生について、時間とともに考え方が変わっていったので、そのことについて。

娘はかわいそうな子なのか

娘が死んですぐは、マイナスな言葉で頭がいっぱいだった。どうしてうちの子がこんな辛い目に合わなければいけなかったんだろう。生まれてきた時から、傷の痛みや、貧血のだるさや、息苦しかったりを、言葉で訴えることもできずに死んでいったこの子の人生って何だったんだろう。苦しむためだけに生まれてきたようなもんだな、かわいそうな子を産んでしまったな。とても口には出せないけど、とにかく「かわいそう」という気持ちでいっぱいで苦しかった。ずっとこの感情を抱えていくんだろうなと思っていた。

でも、数ヶ月かけて娘の写真を整理したり、このnoteを書いたりしているうちに、少しずつ考えが変わっていった。

スマホのなかに残るのは、傷の状態を記録するために撮った写真がほとんどだけど、もちろん娘の笑顔の写真もたくさんある。その笑顔の写真をみていると、かわいそうな子だった、病気でつらいだけの人生だったなんていう決めつけが、私のひとりよがりの考えに過ぎなくて、娘に対してとても失礼なことだと、それまでとは違う思いが湧いて来た。

noteに記録していくうちに、娘が死んだことより、生きたことにフォーカスできるようになったんだと思う。私たちの顔をみて笑ってくれたその瞬間は、間違いなく幸せな気持ちだったはずだし、両親だけじゃなくて、病院のたくさんのスタッフさんたちに愛されてかわいがってもらったことも、本当に幸せなこと。娘の人生に、病気しかなかったわけじゃない。いくら親とはいえ、私が勝手にかわいそうなんて決めつけるのは違うよね。

娘の話を聞いて欲しい

娘の生前は、病気のことは家族にしか伝えず、亡くなってからもごく一部の友人に連絡しただけ。聞かされた方は反応に困るよなぁと思うととても言い出せなかったんだけど。娘の生にフォーカスできるようになると、娘が生きていた時の話を誰かに聞いてもらいたくなってきたりして、自分でも驚いている。

眠くなるとなぜか頭を左右に振ってたんだよね〜とか、お風呂のときお尻をふりふり動かすのは次男も一緒だね〜とか、パプリカ聴かせるとおとなしくなったんだよね〜とか、R-1の容器にビーズを入れて作ったガラガラをジーッとみてたんだよね、とか。そんな長男次男の育児話の延長線上で、娘の話も聞いてもらいたいなぁと思う時がある。超絶美人の女医先生に「娘ちゃん美人さんですよね」って言ってもらったのに、我が家に美人は生まれるはずないが…と思って答えに窮した話も。(でも確かに両親のいいとこだけ取った顔だったと思う←)

とはいえ、死んだ子の話なんてこっちも相手も気遣うし、結局家族以外と娘の話をする機会はほぼなくて、それがちょっと寂しかったり。

そういえば、「誰かに話した方がいいと思って」と、復職前にお茶に誘い出してくれた友達には本当に感謝してる。私が逆の立場だったら、そっとしとくのが一番かなって、自分から誘うなんてできなかったと思うから。話を聞いてもらったあとは、少しだけ心が軽くなったのを覚えてる。

もちろん、今までもこれからも、娘がいなくて寂しい気持ちが消えるわけじゃないし、後悔で胸がいっぱいになってしまうこともたびたびある。それでも、娘が生きたことを考えることによって、死への悲しみが和らいできているってことかな。

そっとしておかない優しさ

娘のことを伝えた友人たちの中には、折に触れて娘の話題を出してくれる子もいて。「なかったこと」にしない優しさというか。ありがたいなぁと思う。もちろん、触れないでおく優しさもあると思う。

大切な人を亡くしたとき、話をしたい人もしたくない人もいるだろうし、話せない時も話したい時もあるだろうし。ただ、私は話すことで心が軽くなることがあるって知ったから…これからは、なかったことにしない優しさも、そっとしておく優しさも、どちらも使い分けられる人になりたいな。

コミュ障だから、できるかわからんけど。




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