朧気な記憶―幼児期編

私は埼玉の奥地で産まれた。
産声はかぼそく、未熟児だったそうである。
母は私を産んだ時、「歯が折れた」「おやじと同じB型か、最悪だな!」と思っていたらしい。
ちなみに、おやじとは彼女の父のことだ。
彼女は私の祖父を心底嫌っているように見えた。

私を出産後、母は私を祖母の家の和室に捨て、東京に逃亡したらしい。
祖母から聞いた話なので、どこまで真実かわからないが・・・

私はその時、知らない山中に置き去りにされた悲しみを負ってしまったのかもしれない。
赤子とて、言葉は使えぬが、意識はある。
その悲しみは私の中のトラウマとして刻まれ、蓄積されていく。

『誰も助けてくれやしない』
私の中の粘着質な毒の花が芽を出した。
母親の身勝手さが私の中の自尊心を粉々に叩きわっていった。

私の幼児期は青空と一個ずつ切り出しされたパーツのみの記憶しかない。
女の子とままごと遊びも、男の子とサッカー的な遊びもしたことがない。
芋掘りをした記憶や弁当を幼児達と円になり食べた僅かな記憶。
私の感情は不思議と過去に伴わない。
さながら、モニターを睨むSEのようであった。

当時の記憶を掘り出すとしたら、夜な夜な両親に居酒屋に連れて行かれて「ジュースだよ〜」と母親と父親から甘いカクテルサワーを飲まされる。
両親と祖父母連れ立って、居酒屋と寿司屋のハシゴは日常茶飯事であった。

皆様、ご気付きだと思うが、これは立派な親権を駆使した犯罪である。
幼児には手も足も出ない世界の中で、大人の身勝手さに翻弄される私がいた。
これでは、自律神経もおかしくなるし、精神が参って当然だろう。
当時、かきむしってジュクジュクになるほどの帯状疱疹かアトピーがお腹と首にできていた。
心の叫びかもしれぬ。

祖母も祖父も私の両親に対して「子供に良くない!」と注意を一言もしなかった。
『大人が楽しければ、子供も楽しいはず!』と大人のエゴが顔に書いてあった。
板前さんがカウンターにいる寿司屋に行くのは当たり前、金を湯水のように使うのを目の当たりにしていた。
「サビぃ抜き中トロお願いしまぁす」とたどたどしくも偉そうに伝える。
私は幼児だし、場にそぐわない存在だったかもしれない。

『過食が幸せ!』
たくさんたべたら、祖母が特に喜んだ。
大人の酒の席で子供が楽しいはずがない。
私はそこで甘やかされる事と過食する事でストレス解消を学んだ。
―飽食であり、快食!―
私が見えない助けてを飛ばしたところで誰も助けに来るはずもなく、静かに過食フィーバーは警鐘を鳴らし続けた。

思えば、祖母が毒の元凶な気がする。
私は幼児期、祖母に預けられていた。
実父の苗字から祖父の苗字、果ては養父の苗字である。
こんなに苗字が変わっては、子どもとしては混乱し、沈黙してしまう他ない。
法律に詳しくないが、無戸籍問題など関わっているのかも、と疑問を抱く。
幼稚園の時の写真を見ると、祖父の苗字が記載されている。
養子になったわけじゃないのに、不思議だと思う。
以前、役所で何かの手続きを踏んだ際、「特別養子縁組」と記載されていた。

薄らぼんやりした記憶の中に父から「お父さんになっていい?」という記憶がある。
二十歳をすぎてから改めて伝えないあたり、一番の毒親であり確信犯だ!と思ってしまう。

祖母の家から幼稚園に通っていたが、記憶が全く無いし、楽しくなかったのだろう。
今で言う場面緘黙症的な一面もあり、苦しんでいたのかもしれない。

『人間が苦手、話すのも苦手、集団に交じると過剰に緊張する』
そんな私は一人でよく戦ってきたものだ。

私は自閉症スペクトラムという一人の戦士なのかもしれない。

私の幼児期の話は以上である。