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【小説】Ib.(b)009

 とにもかくにも私の1日は忙しく回っている。朝は5時に起きて、水道の浄水を常温でコップ1杯飲む。寝ている間に私の身体から出ていく水分を補給する。パジャマを脱いで姿見で全身を映す。裸の私がそこにある。スタイルが良いとか胸の形が綺麗だとか大学の子が誉めたり羨ましがったりするほどに私は自分の身体が好きではない。であるからこそ、毎日こうして身体におかしなところがないか検分してるのだ。決して自分に酔ってるだけじゃない。
 洗面所で洗顔料を手で泡立たせ、触れるか触れてないかの加減で丁寧に顔を洗う。神だけでなく美容もまた細部に宿ると思っているから、手は抜かない。肌が露出する部分にたっぷりと日焼け止めを塗る。そんなに高価なわけではないので、汗をかけば剥がれてしまうが、それならそれでいい。別に日焼けがしたくないわけではない。アームカバーやフェイスガードで全身を執拗に防備している人は不自然な気がして、あんな格好をするぐらいなら、ちょっとぐらい焼けてもいい。
 とはいえ、ランニングウェアは目立たないのが一番。スポーツブラで胸をなるたけ平板にして、上下は黒のロングスリーブを着用し、肌の露出はゼロ。上にTシャツと短パンを着て、深めにキャップを被り、髪の毛は後ろで束ねる。
 家が海に近ければ、海沿いのコースを毎回走り、日々の海原の変化を楽しむなんて味わい深いこともできたけど、あいにく住まいは内地も内地だから、商店街やら敷地の広い公園やらメインストリートをひたすら直進やら、その日の気分に合わせたコースを選んでいる。走っていると嫌なことが忘れるなんて都合のいい謳い文句であって、辛いときは辛いし、女性にありがちな嫌なことがあったりする。変な男に声をかけられたり、後をつけられたり。
 でも、生きていれば良いことばかりじゃないわけだから、走ってるときだって、それは同じだ。それに私は自分が他の子たちより恵まれているとなんとなく自覚している。なわけで内なる誰かがいちいちお節介でランニングを阻止しようとしても、私はそれを振り切り今日も走り始めるのだ。
 野菜が身体に良いことは知っているけれど、実際に食べるとなるとしんどいというのが正直なところ。不味いというより乗り気がしないのだ。だからこそ、一日の初めの食事で嫌なことは先にこなしてしまうようにしてる。最近、ブームがきてるアスパラガスを手頃に切って、オリーブオイルのひいたフライパンで焦げ目が出るまで焼く。出し汁を沸騰した中にレタス、オクラ、斜め切りしたネギを入れて、ふやけるまでに煮る。丼ぶりに炊き立てご飯をよそい、その上に出し汁を吸い込んで柔くなった野菜達と歯応えが香ばしいアスパラガスを盛り、最後におかめ納豆を上からかける。残った出し汁は味噌を溶かし込み、味噌汁にする。私の朝食が完成した。
 母親は私のご飯を見るたびに見てはいけないものを見てしまったので、それを振り払おうと目を閉じて首を振るのだが、お母さん、年頃の娘にはこのご飯が必要なんですとアイコンタクト。
 私の存在など忘れてしまったかのように連絡が途絶えた崇から昨夜LINEが届いていた。スマートフォンが世界を変えたのはなんとなく分かるけど、睡眠の質量からすると有害物質でしかないので、寝室を分けて、玄関にある母親がお土産で買ってきた手のひらサイズのバスケットで横になってもらっているから、家を出たあとに気がつく。
 人を好きになることに理屈はあとからついてくる。どうやら私はどれだけ放置されてもまだ今のところは崇への気持ちがあるようで、
今日、会える?
という文字に対して、
いいよ。
と送った。
 言ってやりたいことは山ほどあるけれども、それをそのままLINEで送ると、かなり痛いコミュニケーションになってしまうので、直接会ったときに小出しにするとしよう。その時のことを想像すると顔が自然にニヤけてしまい、電車の向かいに座っていた男性のサラリーマンと目が合ってしまったので、私の眼は携帯へと外らせる。
 陶芸科の作業室で雰囲気緩く、友達のゆっことお喋りしながら、焼き物の製作をしている時間が好きだ。片一方ではろくろを回しながら微妙な手の動きで形の微調整を行い、もう片方ではゆっこと話している私の脳はもしかしたら、どこぞのジャズミュージシャンのように右脳と左脳が開いてるのかもしれない。
「向こうが会いたいって言ってきてるんだから、好きなもの好きなだけ奢ってもらえば。」
「ドン引きするぐらい、がっついてやろうかな。」
「そして、その後は…」
声だけでゆっこがどんな顔をしてるかが分かる。
「分かんないよ。だけど、ちゃんと関係をはっきりさせるのが先じゃない?」
 ただ、もしそうなってもいいような綺麗な下着に着替えに一度家に戻ったことはもちろん黙ってる。
「そういえば、友達の文明くん、女性問題でめっちゃ噴いてるよ。」
 憚りなく大きなため息を吐いてしまう。ブンメイには何度か連絡しているのに返事がなく、悪い噂ばかりが耳に入るようになる。周りの男共はどうしてこうも自分勝手に振り回してくるのだろう。怒りしかない。心理的嬲りに遭っている。一度直接会って、双方に説教しなければならない。場合によっては手が出てしまうかも。自分を抑えきれる自信がないなぁと沸々とした怒りがいくばくの心配や不安と共に底の方で流れてく。
 適度に気が抜けた演劇史の講義を揺蕩う意識で受けていると、自己と他者、肘と机、時の経過すらも0.03の視力みたいに曖昧になっていったのだが、ふと崇と会う店が決まってないことに気がつく。向こうから何も連絡がない。まったく自分が遍在するとでも信じているのだろうか。思わずうわぁ〜と情けない声が口から出て、前の席の男子の頭がくるっと回転する。
 恐らく怒り若しくは悲しみを熱源にして焦りが生じる。仕方なく、見つかったら説教されるのを覚悟で机下でスマホを操り、店を選ぶことにした。朝食さえきちんと摂れば、あとは大概好きなものを食べて良いという緩いルールに則り、今日の気分はタレと酢につけた小籠包を存分に食べたいという欲求だった。そこから派生してニンニクをふんだんに使った豆苗の炒めをツマミに生ビール。一手に引き受けた手元がネットで検索をかける。当日だから贅沢はいえないが、画像からそこはかとなく立ち上る雰囲気と胃袋が納得する品定めを真剣に選別し、予約が完了して顔を上げる。教授がすぐ近くに立って、冷たく私を見下ろしていた。
 店の情報と予約時間を崇に連絡した。しばらく時間が空いたので、カフェで過ごすことにする。コーヒーが好きだが、あんまりガバガバ飲み過ぎないように、ゆっくりと味わえるときのために取っておく。だから、私は店内でPCや携帯を開くことはなく、コーヒーを飲む。窓際に陣取り、外を行き交う人を眺める。ガラスがスクリーンになり、どんなにKの数字が更新されたとしても、これほどリアルに近接したシーンを見ることはできないだろう。
「お隣、よろしいですかな?」
「どうぞ。」
反射的に反対側にずれる。そして、顔を声の方に向ける。ステッキをついたシルクハットを被った老人がにんまりと微笑んでいた。私も釣られて微笑み返し、ゆっくりと3秒数えたあと、なるべく自然に元の位置に目線を戻す。そして、またさっきと同じように外を見るのだが、隣からの視線を感じて落ち着かなくなる。だから、もう一度振り向く。
「あの、何か御用でしょうか?」
「ホッホッホ、気を悪くしたなら申し訳ありませんなぁ。なにせ身寄りのない老人なものですから、溌剌としている若い方がいると、ついつい目がいってしまう。もしご迷惑なようだったら、すぐに退散しますので。」
「いえ、迷惑だなんてそんなことないです。」本音を言えば、いなくなって欲しかったが、私はそこまで自分の気持ちを正直に語ることはできない。
「ホッホッホ、それは良かったです。」
シルクハットの老人はそう言って、震える手でもって揺れるコーヒーカップに口をつける。
「お一人ですかな?」
「えぇ、まぁ。ただ、この後に人と会う約束があるんです。」
シルクハットの老人は帽子のつばを片手でクイクイと微調整している。シルクハットの高さはコック帽ほどはないが、山高帽よりは高く、サイズでいうとミディアムといった具合だ。
「実にいいですなぁ。あなたみたいな人と同じ空間、時間を共有することができたら、相手はとても幸福でしょうな。」
「いやいや、そんな大層なものじゃないです。」首と手を振る。
「立ち入ったことをお尋ねするが、あなたはその御仁と将来を誓い合っているのですか?」
「えっ。」シルクハットの老人は人の好さそうな笑みを浮かべながら、私の返事を待っている。
「そんなの・・・分かりません。」
「では、刹那的な気持ちで付き合いをしている?荒涼とした心の隙間を埋めるために?」
 私は頭を巡らせる。崇とどこに向かっているのか。そもそも崇とどうしてこういう関係になったのか。はじめて会ったときから、気になる存在ではあった。なんというか、他の男子とは違う何かが存在していた。それが何かを今も探し求めている気がする。キスをしても抱かれてもどれだけ身体が接近しても、あいつの正体は分からない。それにもしも分かってしまったら、その後にあるのは・・・
「分かりません、何も。」私はなんだか急に怖くなって、気がついたら涙が出てしまった。老人から真っ赤なハンカチが差し出された。
「いやはや、悪いことをしてしまったな。歳を喰うと、遠慮会釈がなくなってしまう。許してくだされ。」老人はマグカップにあった珈琲を一口に飲み切り、それではと言って席を発っていった。あとに取り残された私は老人の赤いハンカチーフで涙を拭い、しばらく放心したようにその場に座り尽くしていた。
 約束の時間には10分遅れた。返信はなかったけど、崇は既に席についていた。
 そして、崇の隣には女の人が座っていた。
 私の中の何かが激しく動揺した。実際に身体も震えたかもしれない。それはもう少しで震えを越えた痙攣に迫る強さだった。
「座れば?」
そう言われて私は自分がずっと立ったままだったことに気がつく。
恐る恐る座り、崇と隣に座る女の人に視線を送る。女の人は静かに微笑んでいて、それは焦せりや疑い、悲しみや傷つきを掻き回されているようだ。
私の芯が引っ掻き回されている。
ついさっきまでお腹がずっと減っていたのに、今は胃の上の胸がいっぱいで全然何かを食べる気にならない。
「生2つと、ウーロン茶、でいいよね?」
崇はそんな私の状態に見て見ぬふりをしているのか隣の女の人に気遣いながら店員に注文した。
 運ばれてきたビールで乾杯する。声は私の耳がびっくりするぐらい不自然な声で、掠れ切っていた。ビールはビールで炭酸と泡と液体であることぐらいしか分からず、味は遥かに遠のいてしまった。
 崇はメニューを指差しながら女の人と楽しそうにしているのをみて、感情が決壊した。
「あんまりだよ…」
涙が後から後から溢れてくる。それは私の中の底の方から湧きあがり、水位が増して、眼という排出口から流れ出ていく。店内の古楽器のBGMと私の嗚咽が不調和に交わり、悪目立ちしていることが片隅では分かっているけど、止められない。あらゆる器官が振り切れてしまっている。
「これ、使って欲しい。」
 私の上の方から声がする。その声がなんとも不思議な響きで、人間離れしたように澄んでいるのにも関わらず、温もりがあった。私の感情はみるみるうちに鎮まり、顔を覆っていた手をゆっくりと開放すると、目の前に白いハンカチと白い腕が伸びていて、その先には出来上がったばかりの輝く瞳が心配そうな顔をしていた。
「あ、あ、ありがとう。」メイクが崩れ、眼から鼻から液が出て、きっとひどい顔になっている。心臓が心になって大きく収縮しているから、子どもの頃のように大きくしゃくり上がってしまう。でも、そのおかげでというか、一部ではスポットライトのように温かい陽気が当たり、徐々にそれは拡がっていった。
「落ち着けば?」
「説明して、この状況。この人誰なの?あっ、ごめんなさい。ハンカチ汚しちゃって。洗って返します。」
 笑顔のまま、静かに首を振る。
「せわしな。」崇も笑う。
「うるさい。」私は睨む。
「まずね、人であって人じゃない。あと、外見が女に見えてるのは、お前の深層本能が女に見せてるだけ。」
「何それ?全然分からない。」崇が危ない世界の領域に足を踏み入れてるのではと一瞬思った一方で微かに認めたくはないんだけど、痛いところを突かれたときの全くの死角からギクッとなるような言葉では表現できない理解があった。まるでよくできたホラーを聞いたときのように背筋がすっと寒くなる。
「その前にずっと言えなかったことがある。オレ、実は風俗の仕事をしてる。ボスのおかげで仕事は順調だったけど、多様性とかほざく顔の見えないレイシストが勝手に法律を制定したから、営業自体ができなくなって、会社が傾いてる。ジリ貧ってやつ。でも、これが完成した。B.Bっていうの。俺たちのメシアさ。」
 まず、私の知る崇が音を立てて崩れていく。そして、私の意識は宙に浮いたようにどこまでも垂直落下し、気がついたら洗面台の鏡がバラバラに割れたような気分。深層本能とやらが目の前の「メシア」を女の人と見せているのだったら、反対に崇はもう私の知る崇ではなく、1人の若い男の人に抽象していった。
「つまり、崇はこの人を風俗で働かせるってことだよね?」
「そう。B.Bは単なる人間じゃない。極めて人間的な生物だ。この地球上にB.Bは未だこの一体しかいない。人間でないから法律が適用されることはなく、自由に働かせることができる。」
 崇はまるで自分の手柄のようにべらべらと話を続けているが、私はどんどん白けていった。たった一瞬のうちに、気持ちが醒めていくことがあるんだと自分でも驚くくらいだ。軽蔑という感情がどこまでも冷たいことを知った。
「悪いけど、私もう帰るね。疲れた。」
 私はそう言って席を立った。もう崇が何をしようが勝手にすればいい。
「分かった。じゃあな。」
後ろから声をかけられたが振り返ることはせずに、そのまま真っ直ぐ、一刻も早くあの汚らわしい人間から逃れたかった。
「いいんですか、あの人とても傷ついている。」
 そう言われて、返事をするかわりにグラスに入った中身を崇は空にした。
「いいも悪いもない。これが事実じゃないか。オレたちは君を利用し、もう一度再起をかけて事業を興すんだ。それは決して褒められたことじゃないし、ずっと彼女を騙しながら付き合っていくわけにはいかないだろう。」
「でも、隠すこともできた。けど、しなかった。」
 崇はそれには答えず店員を呼び、紹興酒を頼んだ。今日は思う存分、身体を痛めつけるぐらい飲むと決めて。

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