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【小説】b.(b)010

 食事を取るため等に使用するベッドに固定してある台に、読みかけの本を伏せて、トイレに行って帰ってきたら、誰かに盗られていた。
 動かないでいるのも不健康だから隔離病棟のフロアをウォーキングしていると、他の患者が話しかけてきて、一方的な本人しか分からない冗談や卑猥な言葉をぶつけてくる。
 医者や看護師は終始諦めている。口では空っぽの希望を口にするのだけれど、眼や笑顔や動作が私達に、諦めてどうか問題を起こさず大人しくここで一定の間過ごしてくれと言っている。もしかしたら、私の幻聴の可能性もあるけど。
 美味しくも不味くもない食事。1人で食べれるぐらいには自分自身が回復したことは喜ばなければならない。ここにやって来たばかりの頃は、身体がずっと固まり、看護師がずっと私の身の回りの世話をしてくれていた。私の身体を触診しながら、担当医は石化魔法をかけられたみたいだと言った。唯一自由が効く思考で、魔法をかけてるのは自分自身だけどと独りごちた。
 窓にはぶ厚い鉄格子が嵌められているが、逃亡防止用ではない。その気になれば、脱走ができないことはない。この病棟の外へと通じる扉はオートロックがかかり、職員が管理をしているが、制服を着た飲料メーカーの社員が自販機の飲み物を補充しに来たりする時などは無防備に扉が開いていたりするし、使用済みのシーツを回収し、新しいシーツの補充をしに来るリネン業者なんかはもっと扱いが適当だ。その他にも頻繫に人の出入りはある。ただ、私を含む患者は一様に何かを希求する意欲が削がれている。ある者は薬物によって、ある者は心に負った深い傷によって。
 希釈した糞尿を蒸したような臭いがする広場の本棚から古書店で投げ売りされているような文庫本を抜き取り、少し離れたところにぽつんと置かれた丸椅子の上に座り、退屈しのぎにペラペラと頁をめくっていると、館内放送が私の名前を呼んだ。間もなく、医者でもない看護師でもない職員が夫が面会に来ていることを伝えに来る。そして、その職員と共に移動して、普段は施錠がしてある部屋を職員が鍵で開ける。中に入ると、夫が座っていた。入ってきた部屋の反対側にはもう一つ扉があり、どうやらここからも外に出ることができるみたいだ。
 無理矢理机と椅子を詰め込んだような窮屈な部屋で、私と夫は対面で座っている。前回、面会に来てからそれほど日が経っていない。一ヶ月ぐらいだろうか。その時、夫が何やら異様な興奮状態にいたことをぼんやりと記憶している。
「遂に、沓子が完成した!完成したんだよ!体調が回復したら、おまえもここを出て、直接沓子を目の当たりにしてくれ!」
 沓子の名前が出た途端、私の感情は崩壊した。まず、心が痙攣を起こしたように震え続け、蛇口が馬鹿になった水道のように涙が後から後から止まらなくなり、口からは言語に尽きない哀しみの慟哭が絶えず発せられた。当然、面会は中止となり、私は隔離室送りになり、誰だか判然としないが、直に注射を打たれて、意識はゼリー状にふやけていった。
溶けていく視界の中で困惑している夫の顔と、夫に非難めいた顔で睨む職員がいた。それはきっと私がこんなことになってしまったせいだ。ただ、私がこんなことになってしまったのは誰のせい・・・一粒の涙が雫となり、私の目からひょっこりと現れて、それはまだ生まれたばかりで足元が覚束ない様子で私の地面にしばらくとどまっていて、私はそれを感じることができていたが、注射が段々効いてきて、私の意識はどこかに飛散していった。
 今日の夫は見るからに沈んでいる。そして、よく見ると顔中に生々しい傷があり、眼の上は重く腫れ上がっていて試合後の格闘選手みたいだった。
「どうしたの?その怪我、痛そう。」
「盗まれた。」夫が拗ねた子供のようにボソッと言った。
 盗まれたのは、沓子だろう。前回のことがあって夫は意識的に沓子の名前を出さないでいてくれてるのかもしれない。あるいは事前に職員から厳しく注意があったのかもしれない。実際、あの子のことを思い浮かべるだけで、あの子がいなくなった時の絶望に身がすくむ思いがするのは確かだ。だから、私はこの事を言わなくてはならない。
「沓、子が、どうかしたの?」
 口に出した途端、気持ちが荒れて、また涙が出そうになるが大丈夫、まだ自制ができている。
 夫は私の様子をしばらく黙って見ていて、それは私がまだ半狂乱にならないか伺っているような感じだったが、やがて安全だと判断したのか口を開いて事の経緯を話し始めた。
 完成した沓子は夫の会社で生活をしていた。夫の作った沓子の人工脳と腕は確かだが、友達には到底なれない人間と夫が言った共同開発者が作った沓子の身体は、創作者達自身の相性とは対照的に、問題なく互いに機能していて、たとえば朝食を食べることについて、目の前に出された料理が食べ物である認識があり、箸やスプーンを使って、口に運び、噛んで飲み込むという一連の行為も違和感なくできていた。
 沓子は自分自身が造られた存在であることを記憶している。つまり、人間本来の生まれ方をしていないことを理解している。このことについて、沓子を設計した夫は、もし、沓子が我々と同じ人間であると認識を土台にした仕様にした場合、何かのきっかけで自分がそうではないと気がついたときに、存在の矛盾が発生する。すると、それは病のガンのように沓子の細胞であるブロックチェーンを蝕んでいく。だから、初めから自分の存在のルーツを明らかにしていく。
 しかし、沓子が存在している理由は愛だ。とすると、通常の人類の出生する理由と何ら変わらないと夫は断言する。
 とはいえ、まだ生まれて間もない沓子は何かと不安定であり、関係者間が交替で沓子と会話をすることに決めた。そして、くれぐれも身体への接触は避けることとした。
「パパ、残念なお知らせがあるの。」
「沓子、どうしたんだい?」
「お腹が空いてきてしまったわ。さっき、猿の脳味噌を焼いたものをあっちのパパとあんなに食べたって言うのに。」
 馬鹿な渡邉が、また変なことを沓子に吹きこみやがったと夫は内心苛立ったが、沓子の前なので取りなして言った。
「沓子、それはもう一人のパパの悪い冗談さ。沓子が食べたのはハンバーグといって、牛や豚の挽肉を使った料理だよ。細かく刻んだ玉ねぎなんかも入ってる。」
「どうして、あっちのパパはそんな嘘をつくの?」
「沓子を楽しませるためじゃないかな。」本当は気が狂ってるからだと夫は言いたかったけど、沓子の前では慎んだ。
「それで、前にパパが話してくれた吉野家の牛丼が食べたい。」
 夫は悩んだ。沓子の要望を叶えてやりたいものの、2人で外出するわけにもいかず、自分が車を走らせて店まで行くには時間がかかり過ぎる。だから、今まで利用したことのないUber eatsを使うことにした。こんな辺鄙なところであっても、問題なく宅配可能なことに夫は驚いた。外部の人間が社内に侵入することは望ましくないから、入口前に置き配を選択して、料金はカード決済した。
 1時間後、宅配完了の知らせがスマホに届く。
「取りに行ってくる。」
と夫は言い、喜んでいる沓子を残して外に出た。
 この辺りの夜は周りに建物がなく、海岸が近いこともあり、夜の深みが濃い。入口前の灯りだけが頼りで、それより外は暗闇が支配している。
 置き配は段ボール箱に入った捨て猫のように地面に置き去りにされていて、夫はさすがにこれはないだろうと呆れ果てた。
 ビニール袋に入った2人分の牛丼を持って、入口のロックを解除し、中に入ろうとした瞬間、頭蓋の内側が破裂したような大きな音と共に、それに負けないくらいの振動が夫を襲った。意識が飛んで、そのまま地面に顔から落ちた衝撃で再び意識を取り戻した夫は咄嗟に手で後頭部に触れると、ぬるっとした手触りがあって、表に返した手のひらは一面が血に染まっているのを目視した夫はその時に誰かに襲われていることを認識した。しかし、夫が手に持ってるのは、牛丼が入った発泡スチロールで、役に立たないし、視界もぐらぐらと揺れている。なにより、この手の事態が生まれてはじめての経験なので、何をどうしていいかも夫には分からなかった。
「見た目に寄らずタフだな。」
 背後から声がしたような気がしたので、夫は反射的にその方向に向かって、突進した。それはタックルというような代物ではなく、単に体をぶつけにいったようなものだったが、少なくとも相手には当たることができた。
 さて、この後は何をしようかと夫の頭と身体がこんがらがっている最中に、相手の身体が収縮し、皮膚が圧縮した風のひゅっという音を感知した瞬間に、夫の顔が飛び跳ねた。衝撃から目がチカチカしたかと思うと、左の視界が暗転し、やがて幕が下りたかのようにふっと暗くなったので、夫はてっきり眼玉がどこかに溢れ落ちてしまったのではないかと思ったが、不思議と恐怖はなく、まだ腕のクラッチは組んだままで、しがみついていた。
 相手からの攻撃が上から来るため、それを避けるために下を向いていたら、膝が腹を襲い、抉られて、呼吸が出来なくなり、その場にぐでたまになり、しばらく痙攣が止まなかった。
 その後、何回か無慈悲な蹴りが顔に飛んできて、もう立ち上がることができないし、防ぐこともできないまま、夫はもはや笑いが込み上げてきた。地べた舐めたような体勢で誰かが蹴ってくる鈍いバキン、バキンという音を振動と共にどこか他人事のように身体で味わっていて、もはや痛みは途中で脱け落ちてしまった。
 しばらく意識は失っていた。固い地面の感覚と全身が激痛で蠢いていて、ごく自然に夫は呻いた。立ち上がるのさえ困難を要し、自分の身体とは思えないぐらい動くのが不自由だったが、それでもなんとか鞭打ち、上の沓子が待っている部屋まで辿り着いた。扉を開ける。
「沓子は、またいなくなった。でも、今度はオレを襲った奴が沓子を誘拐したんだ。間違いない。」
 夫の声は生気なく、まるで夫の形をした脱殻が喋っているようだった。自分が学生だったときに音楽室かなんかに置いてあった真空管の蓄音機みたいだなと私は思った。一旦、そう思ってしまうと頭がいかがわしい化学物質を分泌して、それが視覚神経に伝わり、私の眼の前にはウルトラマンのカネゴンをより歪にしたような金管の怪獣が項垂れたように座っていたので、私は試しに積年の疑問をぶつけてみた。
「あなた、赤の他人と沓子もどきを2人で造って、一体何がしたかったの?」
「えっ」
「だって、なにか目的があったんでしょう?」
「オレは、オレはもう一度沓子に会いたかった・・・」
「じゃあ、それは叶ったじゃない。あなたの中の沓子が現実的に現れて、あなたの言葉を借りれば、沓子を目の当たりにした。なら、良かったじゃないの。夢は叶ったじゃない。」
「でも、沓子はまたいなくなってしまったよ。」
 金管の怪物は、おろおろとうろたえていた。帰り道が分からなくなってしまったようだ。
「じゃあさ。」
 自然と顔が緩む。
「また、造ればいいじゃない?沓子もどき。」
 しばらく無言が続く。椅子にだらしなく寄りかかり、項垂れて下をずっと見ている。シュールレアリスムの絵画に出てくるような姿をしているが、充分人間の形に見えてくる。
 突然、化物に身を包んだ夫が立ち上がった。垂直に177cmの高さになり、座ったままの私を見下ろす。入り組んで捻じれた金管の出口が私の頭以上に拡がった。私はこのまま喰われると思った。
「おまえ!おまえは何した!えぇっ!」
 今まで存在を消していた職員は突如激昂した夫をなだめようと近づいたが、手で強く振り払われて壁に激突した。
「オレはなぁ、沓子を失った絶望的な痛みを乗り越えるために沓子を再生しようと必死になってやってきたんだよ。おまえがなにもかも放棄して止まってしまったときに、ずっと今まで動いて、働いてきた。」
 私がそのまま座ったままでいると、夫は私の室内着を掴み、そのまま上に持ち上げた。青白い虚弱な私の腕や鎖骨が露わになり、自分の肉体ながら随分、貧相で不健康でかわいそうだった。
「このこのこのこのこの、何もしてねぇくせに。」
 後ろの扉が勢いよく開いて、どばっと吐き出されたように制服を着た屈強な人たちが入ってきて、私と夫をあっという間に引き離し、夫は両手両足を制圧された。
「おまえ、二度というな!分かってんだろうな、クソクソクソクソ!」
 御輿のように担がれていく夫を私はしばらく黙って見ていると、職員の人が私の腕を引っ張り、病室に戻りましょうという。
「1人で戻れます。」
 私は久しぶりに怒りを表出することができた。職員はちょっと怯えていたけれど。
 その夜は、特に満月というわけではなかったけど、月明かりがとても強くて、照明が当たっているかのように空は明るかった。窓の鉄格子の隙間からそれをずっと眺めていると、どこからともなく音楽が流れてきていた。消灯時間はとうに過ぎているのに、館内放送が流れるわけがなく、音楽はきっと私の内側から発生しているようだ。それはplayというよりhappenというほうが的確な気がした。今までに聞いたことのない音の連なりだった。ボーカルはなく、弦楽器や打楽器が床を這うように聞こえてくる。一番近い音は耳鳴りだった。でも、決して不快ではなく、今の気分に合っている気がした。
 音に耳を澄ませ、不自然な明るさの月と夜空を眺めていると、段々と気分が沸いてくるのを感じた。
 そのまま夜が空けて新しい1日が始まるまで、私は少しずつ姿勢を変えなら眠らずにいた。月がその光を失うぐらい空が白み始め、音楽はいつの間にかどこかに消えてしまったが、私は目をつぶり、その余韻を味わっていたら、起床時間になっても起きれずに職員が起こしにやってきた。
 ムラっ気は私のどこかに隠れて、午前中はぼっとぼんやりとしていたが、業者が自販機にドリンクの補充をしに来たときにまた湧いた。
 私はどうやら外に出たいらしい。今すぐにでも。
 周囲を見渡した。昨日の面接についた職員がちょうど別の患者の面会に入るところだった。私はその姿を相手に悟られないように目で追った。
 1時間ほどが経過したあと、面接を終えた職員に近づき、私は声をかけた。
「昨日は、酷い態度を取ってごめんなさい。」私は目に涙をためた。
「いえ、全然気にすることないのよ。旦那さんがあんな風になったんだもん。動揺しないほうがおかしいわ。」
「本当にごめんなさい。」そう言って、私は職員に向かって、静かに抱きついた。職員はびっくりしていたが、私を気遣ってくれて、拒否することはなく、しばらくの間、私は彼女の温もりと身体の柔らかさを感じながら、手の指を優しく彼女のお尻に這わせる。
 職員は悲鳴をあげて、後ずさった。そして、また昨日とは別の怯えた色をこちらに向けてきた。
 私は頭を下げた。「ごめんなさい。つい、癖が出てしまって。」
 それはなんの言い訳にもならなかったが、職員は何も言わなかった。しかし、私が抱きつくことに警戒心を剥き出しにした。
 思惑があったわけではないけれど、柱時計が午後3時のワルツを流し、カラクリの小鳥たちが一羽一羽飛び出してくる中で、職員から奪った鍵束を手に持ちながら、私はカウンセリングの扉に鍵を差した。一発目で開く。そして、その奥の外部に通じてると思われる扉がある。この5つの中にあるかどうかは賭けだった。
 一つ目の鍵を刺す。鍵穴は首を振らない。異物を口内に入れたかのように吐き出す。二つ目の鍵を差し込む。綺麗にくるっと回転し、世界の理が合ったような音を、スチール扉は鳴らせた。
 扉を開けて反対側からまたすぐに鍵をかける。これで少しは時間稼ぎになるだろうとの算段だ。扉の外は廊下へと繋がっていた。薄暗い直線の廊下は、どこに続いているのかも知れず、方向感覚も分からぬまま、とりあえず足だけを動かして進んだ。地面の真ん中にグレーの線が引いてあるから、ずっとそれを見ながら歩いた。
 後方から微かに声が聞こえたような気がした。もしかしたら、あの扉を開くと、自動でセンサーみたいのが感知して、職員の詰所に警告するのかもしれない。だとしたら、一刻も早くこの場から去らなくては捕まってしまう。
 突然、数字が知らされないカウントダウンが始まったみたいで、気持ちが焦る。気がつくとグレーの動線は2つに分岐していた。見上げると、そこにはエレベーターがおあつらえのように立っていた。これに乗れば、私はすぐにでも離れられるのだが、何かが引っ掛かる。何か騙されているような気がしている。
 一方の私の思念は、その引っかかりに対して、必死になって打ち消そうとする。それが私の病なんだと。それで私は結局、考えあぐねて何も出来ずに、また固まってしまうのだと。さっきまでは、何も考えず、本能に従って動けと命じてくる。確かにその通りだった。その通りでは、あったが……
 ドン、という音がした。それは現実のドアの音だった。もはや一刻の猶予もなかった。ただ、私は一度頭から全ての理性という穢れを洗い流さなくてはならないと、これもまた私の頭が生み出した産物の声に従う他なかった。
だから、私はパジャマの中の下着の中の、感性であるところの穴に指を差し入れた。それは先ほどのように何もかもが完全に一致するような嵌り方ではなく、穴が私の指を吸いつくすうな混然一体とした空間だった。もはや私の指は穴の中で一体となってしまっているかのように感覚がなかった。
「沓子……」
私は咄嗟にそう言葉に出していた。まず言葉があった。そして、沓子はここから生まれたのだという真実に行き着いた。
 私もまた沓子を求めている。しかし、それは沓子もどきではない。本当の沓子に再会するには、夫の沓子もどきを見る必要があるのだ。
 私は穴から指を抜いて、そのままもう一つのグレーの動線を辿っていった。その先には緑色に光る非常灯があり、その下の扉を開けると、階段が口を開けるように上へ下へと続いていたので、私は少し考えてから下へ降りていった。

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