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障害者は感謝しなくていい存在なのか
こんにちは!
車いす大学生のみのりです。
先日の記事では、私が思う身体介助を語りました。その中で、「ほぼ初めましてなのに、一緒に行くのが当たり前、という価値観を持っていることにとてもうれしくなりました。」と書きました。
そんなことを思っていたある日、ある方からこんなツイートが共有されてきました。
取材で知り合った男性(車いすユーザー)に、礼儀正しいけれど「障害に関する手助けを受けたとき」だけは絶対に礼を言わない人がいる。私が食事を手伝ったり移動を手伝ったりしても、無言。でもコーヒーをご馳走した時なんかは「ありがとう」と言ってくれる。私は、彼のそのスタンスを尊敬している。
— 草山歩 (@kusa_kanagawa) March 17, 2024
以前飲食店で、料理を運んできた店員さんが不注意で私の膝に熱々の担々麺をひっくり返してしまったことがある。私が手元のおしぼりで膝を拭いていたら、しばらくして店員さんが戻ってきて、タオルを差し出した。私は、そのとき軽く返事をしただけで、たぶん礼は言わなかった。それは
— 草山歩 (@kusa_kanagawa) March 18, 2024
「私は既にマイナスのことをされている(店の過失で膝に熱々の担々麺をかけられた)のだから、店側がタオルを持ってくるのは、善意ではなく当たり前だ」と思ったからだ。
— 草山歩 (@kusa_kanagawa) March 18, 2024
この社会は、健常者向けにできている。だから障害がある人は、つねに「既にマイナスのことをされている」状態だ。(続く
https://x.com/kusa_kanagawa/status/1769642605594419528
健常者向けの段差。健常者向けの映画館。それでも怒らず過ごしているだけで、結構心が広いな、と私は思う。健常者は常に、障害がある人の犠牲のもと、便利な生活を享受している。
— 草山歩 (@kusa_kanagawa) March 18, 2024
「障害がある人を手助けする健常者」というのは、(続く
https://x.com/kusa_kanagawa/status/1769642631339147437
この話でいう「膝に担々麺をぶちまけた後、タオルを差し出す店員さん」と同じような感じだと思う。ここで「タオルを持ってくるのは、当たり前ではなく善意ですよね。ご厚意で持ってきてくださってありがとうございます!」と言える人だけが、障害がある人に礼を要求すればいいと思う。
— 草山歩 (@kusa_kanagawa) March 18, 2024
これについて、私は「ん?」と感じたことがあるので、書きたいと思います。
「障害に関する手助けを受けたとき」だけは絶対に礼を言わない?
まず、私はどんなことでも、手助けを受けたときは礼を言いたいと思っています。
ツイートの「「障害に関する手助けを受けたとき」だけは絶対に礼を言わない」の根拠として、
・社会が健常者向けに作られているから、障害がある人は、つねに「既にマイナスのことをされている」状態だから。
が挙げられています。
確かに車いすの日とのことを考えてくれていない街づくりを見ると悲しくなることもあります。
特に、最近オープンしたばかりなのに、見た目重視でユニバーサルデザインを考えていないと、「これだけテレビでもネットでもいろんな人がいることが発信されているのに」と悲しくなります。
だから、社会から、マイナスな状態を与えられているかもしれません。
しかし、その状況で手助けをしてくれた店員さんや人は、私に直接マイナスを与えたのでしょうか?
きっとそうではないはずです。
バリアのある状態を無くそうとしてくれた、感謝すべき人なのです。
だから、その思いに、行為にまずは感謝をしたいです。
感謝することで心が削られる?
今はそんな私ですが、実は昔、感謝を言うことで、心が削られる、惨めになる、そんな風に思っていました。
「なんでいつも私は感謝する立場にあるの?」
それが私は「健常者より下」だと思わされることに繋がっていました。
「健常者より下」への嫌悪感は、小中学生時代に受けた周りからのいろんなことが原因です。
今も「自分は下だ」と思われることはすごく嫌です。
しかし、感謝をしないことで、逆に「障害者は下である」と思われることを実感したツイートを見つけました。
それは、
「犬と同じように、障害者がお礼を言わなくていい論」
犬にお礼を言われなくても腹が立たないから、障害者にお礼を言われなくても腹が立たないようになればいい。
結局、障害者が下に見られている構図になってしまっているのです。
対等だとみられていない。
対等であることを自らも証明するためには、人間として当たり前のことをする必要があるのです。
改めて、やってもらったことに対して、感謝は言いたいです。
社会に対して不満があったとしても、手伝ってくれたのは、ただそこにいる目の前の人なんだから。
それはだれでも一緒ですよね。
席を譲ってくれたり、勉強を教えてくれたり、苦手なところを助けてくれた時、みんな感謝します。
だから私も感謝したい。
私が感謝したい理由
少し違う視点から行くと、私はみんなに嫌われたくないと思っているから、感謝したいのかもしれません。
私は周りから好かれたい。
好かれることを目標にすれば、みんなのやさしさにも触れられます。
そして、たぶんそうしていたら、違うところで耳を傾けてくれる人も増えると思います。
それが最終的に「自分らしく生きれる」
ことに繋がるんじゃないかなって思います。
それってすごくうれしいことです。
つんつんして生きるより楽しく生きられると思います。
小中学生の時は、人を信じなくて、世の中腐った人しかいない、ってホントに思っていました。
その時は本当につらくて、でも世の中腐った人しかいない、って思うのも楽しくなくて。
今、やさしさに触れているとき、すごくうれしくて、幸せだと思えます。
だから、感謝ってお互いが気持ちよくなることなんじゃないかなと思います。
しかし、「既にマイナスのことをされている」状態なのは、障害のある人だけがなのでしょうか?
健常者と思われる人でも、何かしら問題を抱えている可能性も十分にあります。
生理がつらい人、過労を強いられている人、病気の人…
世の中には自分の力でどうしようもできなくて、困っている人がたくさんいます。
そういう人たちも「既にマイナスのことをされている」状態なら、感謝しなくていいのでしょうか?
おわりに
なんだかうまく言いたいことが書けているのか不安ですが、まとめるとこんなことです。
社会がまだまだ障害のある人にとって優しくなかったとしても、助けてくれた人は、社会というものじゃなくて、一人の人である。
だから私は、障害に関する手助けも感謝を言う。それが自分も、相手も優しい気持ちになれることだから。
最近感じるのが、「障害者と健常者の分断」です。
直接的に感じることはないのですが、SNSでは、炎上によって、助けたくないという人もいたりして。
それが社会全体ではないけれど、お互いが歩み寄れるように、普通の人間として感謝を忘れずに生きていきたいと思います。
そして、障害に起因する感謝が必要ないくらいに、物理的な障害を取り除く社会になっていくべきだと思います。
みのり
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