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【冒頭小説】宇智記


朝井リョウ『生殖記』(2024年、小学館)を紹介するためにつくった冒頭小説を抜粋します。


たとえば「宇智(うち)」っていうメス個体がいるとして、宇智の◯◯のある日の言葉を創作してみたらいいのかなって。


宇智はいっつもこうなんです。幼体のころから、協調性や共感力がないって言われ続けてきました。親個体だけでなく、同じ年齢の個体やその個体たちを束ねるオスやメスの個体からも怒られるので、宇智が所属する共同体では本能のまま生活しちゃいけないらしいと気づきました。それ以来、宇智は周りの個体、とくに成体から褒められている個体を観察して真似するようになりました。そこで身につけた能力の一つがこれ。まるで聞いてるっぽく振る舞う能力。この能力を最大限に活かせるのが宇智が所属する最小単位の共同体です。その構成員であるオス個体が仕事から帰ってきました。今日のように、玄関ドアをしめた途端、しかめ面でため息を吐くときには特に有効です。「ちょっと聞いてよ。部長、マジ意味分からん」そこからリビングに移動して、怒濤の愚痴ラッシュ。ふーん。ヒエ~! はぁはぁ。へぇ。ほーう。宇智、ハ行でまわしてますね。この三年で能力に磨きがかかっています。あっという間に三十分経ちました。だんだんハ行の使い回しも飽きてきて、あくびをかみ殺しながら、そろそろお風呂に入ってくれないかななんて考えています。あ、オス個体がちらっと壁の時計を見ました。十一時をまわってます。よし、今だ。「ちょっとトイレに行ってくるね。宙太もお風呂に入って温まってきたら」「ああ、そうだね。聞いてくれてありがと」宙太は、宇智が身を入れて聞いていないことに気づいてますよ。だって、ハ行使い回してますもん。相づちのタイミングも所々不自然だし、十八回は明らかに視線が宙太を通り越して、冷蔵庫の明日の予定に向いていました。でも宙太はそれでいいんです。それがいいんです。だって怒りのエネルギーを「しゃべり散らかす」という運動で発散したいだけだから。それに宙太は、宇智が身を入れて聞き始めると、正直面倒くさいんです。言いたいことを先回りして言われたり、解決策を提示されたり、時には非難の矛先が向けられたりするから。発散できないんです。だからただ聞いてくれたらいい。いや、聞き流してくれたらいいと思っているんです。まぁ、たぶんですけど。それにしてもヒトっておもしろいですよね。つがいになったこの三年間で、二個体の関係性はずいぶん変化しましたから。

朝井版・人間進化?論『生殖記』
ぜひお楽しみください!

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