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旧正月のベトナム 日本とともに半世紀

 歩道を埋め尽くす黄色い花たち。ホーチミンはいま、テトの目前だ。ちらりと見える民家のなかから若者でごった返す大通りまで、浮き足だった空気がたちこめている。

 2023年の1月17日、成田空港からベトナム南部のホーチミンへ飛んだ。第二ターミナル国際線出発フロアでチェックインカウンターを見つけ、行列をうしろにたどっていくと、それは窓口の前で四回折れて、さらに窓口の裏側まで伸びていた。最後尾に並び始めたら、前のベトナム人に「日本人?」と話しかけられる。彼は十三年も日本に住んでおり、流暢な日本語を話した。
 「ベトナムは日本と正月違うの知ってる?」。既婚で、普段は横浜に住み働いているのだが、旧正月にあわせて国へ帰るのだという。彼のカートを軋ませている段ボールの中身は、日本で買ったお菓子だ。巨大な段ボールを二つ、合わせて十キロ。国で待つ親や親戚へのお土産だ。
 周りに注意を払ってみると、会話のなかにちらほら日本語が混じっていた。この時期に日本から飛ぶベトナム人の多くは、留学なり仕事なり、日本に生活の基盤を持っているのだろう。ベトナム行きをこの日に決めたのは偶然で、旅が旧正月に重なるとは知らなかった。行列がこんなに長いのも、この時期ならではだと合点がいく。

 ベトナム語で旧正月はテトと呼ばれる。「テト攻勢」のテトだ。旧暦の1月1日から3日までがテトにあたり、毎年、政府が暦から判断してテト前後の祝日を発表する。多くの仕事は休みとなり、それでも休めない仕事は給料が割り増しされる。そうとも知らずに入ったカフェで、表示額に二割が加算された紅茶をしぶしぶ注文するはめになった。
 戦時も祝祭日には休戦がなされた。その期間に北ベトナム勢力のしかけた奇襲攻撃がテト攻勢である。旧正月は中国王朝が採用した太陰暦の正月で、中華文化圏や華僑・華人の多い地域で現在も祝われている。

 ホーチミンの街に出てまず視界を覆ったのは、黄色い花だった。公園一面に鉢が敷き詰められ、梅の木のような枝の先々に黄色い花が開いている。調べたところ、本当に梅なのだという。大きさは腰の高さくらいで、正月の飾りとして家庭に置かれる。
 ビュンビュン走る二人乗りのバイクが小脇に鉢をかかえているのは、アンバランスで少し可笑しい。鉢からは黄色い花をつけた枝が、頭より高く伸びているのだから。
 これが祭りや大きな店では、クリスマスツリーくらいの大きさのものになる。そしてちょうどツリーのように、赤いカードや吊り旗で飾りつけられるのだ。
 テトに飾る花は、南北で異なるのだそう。南部ホーチミンでは、黄色い花々が主流だ。梅のほかに、代表的なのは菊やキンカン(これは実が黄色い)。北部ハノイではピンクの花をつける桃の木を飾ることが多い。縦に細長いベトナムの南部と北部では、気候も少し異なるということだ。

 今年の元日は1月22日。大晦日、ホーチミンの街を貫く遊歩道には、雑貨や装飾が並び、両脇の道路は歩行者天国として解放された。新年を祝う、もとい記念撮影を楽しむ若者や家族連れが行き交い、赤い服と黒い髪の織りなす景色が波のようにうねる。けたたましい音を鳴らしギラギラと照らされた街は、世俗にまみれて眩しすぎた。勝手に期待していたベトナム像との落差に、自身のアジアへ向ける眼差しを映し見る。

 街にちらほら「50năm 1973-2023」という幕が下ろされていた。今年は、ベトナム和平が成立しアメリカが撤退した1973年から半世紀を数える年だ。
 ベトナム戦争。五十年の時を経て、この言葉はノスタルジーまで帯びてしまったように感じる。カメラマンやジャーナリストが生きていたあの時代。学生と学園が燃えていたあの時代。ロックン・ロールの響きが遠ざかっていく。あの時代を懐かしむたびに、その像は固定され、過ぎ去る時間のなかに足場を得てしまう。

 いま、ホーチミンとハノイを結ぶベトナム縦貫鉄道に揺られている。ホーチミンからダナンへ、十八時間の長旅だ。人々が癒しを求めるダナンの砂浜には、アメリカがベトナムへの介入を本格化した1965年、海兵隊が上陸した。そして、現在のダナン国際空港にあたる土地に基地を建設した。「昔、海の向こうから ー沖縄の基地からー いくさがやってきた」。
 去る2022年には、"日本"も五十年の節目を迎えた。1972年沖縄返還からの五十周年だ。眼差す者からは、あの時代として懐かしまれる半世紀。しかし、眼差され、隅にやられた者にとって、記念の意味を含んだ「周年」は、諦念と絶望を運ぶ言葉でしかないだろう。
 歴史はしばしば、過ぎ去った時代として顕れる。しかし現実は連続体だ。むしろ過去に貼り付けられて顕れるあの時代は、いまを生きる我々の、現実との向き合いかたを映した鏡のようなものだ。
 かつてほどではないにしても(それはなぜか)沖縄はいまも燃えていて、東京や横浜にはアジアからの技能実習生や労働者がわんさかいる。歴史というのは、切り離して眺めるにはあまりに現実味がある。

 午後になって、やっとダナンに降りた。さすがにテトの元日とあって、街はひっそりとしている。どの建物も、赤地に五芒星の国旗を掲揚している。1968年のテト攻勢では、米軍が設置した基地に解放勢力が奇襲をしかけ、ダナンはベトナム戦争で最も苛烈な激戦地の一つとなった。

 日本の歴史は、戦前・戦中と戦後とで断絶されている。では、アジアや沖縄にとってはどうだろう。少し目を凝らせば、現在と歴史とをつなぐ糸が見えてくるのでないか。
 ホーチミンのすす汚れた路上に、男が腰を降ろしていた。彼の脚は、彼の体を支えられない。膨れ上がり、指と膝は内側に曲がり込んでいる。ダナンのバス停で見た男は、顔の片側が肥大していた。唇は腫れ、頬は垂れ下がっている。枯葉剤の足跡かどうかはわからない。だけど、横目ではあるが確かに、僕はこの目で彼らを見た。

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