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なぜ、大神神社に参拝するのか?

最近、YouTubeチャンネル「むすび大学」で

新たなコーナーを収録し始めました

こがの持ち腐れだった、過去

「日本文学部」という学部に所属していたという過去が

始めて日の目を見ました(笑)


宮沢賢治と法華経という

こがの好きなものを組み合わせたらこーなりました

というもの(笑)


大学では「日本文学近代文学」先行で

研究テーマは「芥川龍之介の死生観」という

根暗すぎる卒論を書きました(;^_^A

在学中も、文学とか研究したところで

自分の人生の何に役にも立たないんだろうなーと思っていましたが

ここにきて、役に立ち始めました(=゚ω゚)ノ


卒論を1年半かけて描き上げて

その期間、これでもかというくらい芥川の作品と

研究論文などを読みました


読んでいくううちに

わたしが芥川の作品を読んで感じる

芥川龍之介という人物のイメージが生まれます


それは、

研究されつくした芥川のイメージとは

少し違ったものでした

なので、私はそれを卒論の結論に書いたのです


芥川にとって「死ぬ」という事は

こういう事だったのではないか・・・と


そしたらですね


口頭試問の時に、教授から

「これは、何でそう結論付けたの?

どこの論文からそうたどり着いたの?」と聞かれまして


研究論文とか、参考文献とかも読んだんですけど

でも、テーマ作品を読み進めていったら。。。

もう、そうとしか感じられなくてー・・・(`・ω・´)


このタイミングで言う「死にたい」って

そういう事じゃないですか!!

と(笑)


いろんな論文を読み込んだうえで

それらの論文にはない答えを堂々と、感じたままに

もはや、直感としか言えない結論を伝えますと


教授はものすごくあきれ顔で

「あ・・・そうなんだ・・・根拠はないのね・・・」と( ̄▽ ̄;)

その表情から私の出した結論は

「不正解」だったんだろうなーと、読み取れました
(卒業は出来ましたが)


しかしですね

わたしとしては、納得がいかなかったんです

全く、納得いかなかった


決められた一つの答えがあって

それ以外が「不正解」という形で認められないなら

一体、学問って何なんだ?と


決められた答えに行きつくことが

その目的なのかな?

いや、それは手段なのではないか?


芥川の気持ちなんて

誰も正解とか知らないじゃん


友達でもなければ、会ったこともないし

芥川が手紙に書いてたとしても

それ、本音かどうかもわからんやん!


そもそも、わたしだから感じることができる芥川と

先生視点で見る芥川は同じである必要ないのでは?
(これいい始めたら、卒論成り立ちません(笑))


学問の目的は

その答えに行きつく過程で

自分が新しい発見をしたり

感動したり

挑戦したり

絶望したり

色々な経験を経て

それを、自分の人生の肥やしにしていくこと


つまり、実学であり

どれだけ頑張っても

永久に普遍の、絶対的な答えって見つからないのでは?


学問の究極が「信仰」であり

「愛」というもの

「神」というもの

「真理」「悟り」「奇跡」「幸福」というもの(答え)を探して

人生の中で実践し続ける事なのではないか・・・?


当時の自分が感じていた納得のいかなさは

決められた正解を出さないと認められないという事に対しての

違和感だったんじゃないかと思っています(・´з`・)


今だから、言語化できましたが

「幸せ」になりたいから

そのゴールを求めて

人を訪ねたり、自分の心に問うたり

失敗したり、喜びを分かち合ったり

嬉しい事、楽しい事

ツラい事、悲しい事をたくさん経験しながら

人生を生きて、最後に、その人の死の瞬間に

「ああ・・・幸せだったな」という一言がでれば

その人の生きて来た人生全てが

その人の「幸せ」の構成要素なのだと思うのです


だから、嫌な事

不都合な事

世の中での正解以外の答えを受け入れないという事は

その人の「幸せ」を放棄することになります


これと同じで、日本という「国」の構成要素の中には

活躍した歴史上の人物や神様もいれば


悪人として名を残した人物や、葬られた神様もいる

名前すら残ることなく

その他大勢の○○時代の人もたくさんいる


でも、彼らの人生が無駄だったのか?というと

そうではないのです


偉業とは程遠い人生だった

○○村の権兵衛さんの喜びも、悲しみも

本人はそうと知らないけれど

実は、未来の日本という「国」を構成するために

絶対必要な一人なのです


その権兵衛さんが、一生懸命生きた結果

生まれた子供が、のちの世に何かを遺すことになるかもしれない


権兵衛さんが、一生懸命稲刈りをしている姿を見て

大変そうだなー・・・もっと体に負担が来ないように

稲刈りする方法はないのだろうか・・・

と、たまたま通りかかった人が、そう考えて

それから、稲刈りに対するアイデアが生まれることも

あったのかもしれない(笑)


自分自身が直接影響は残さずとも

想いや、気持ちは何代にもわたり人に伝わり

数百年後に、ようやく、どこかの国で花開くのかもしれない

今を生きる私たちもどんなに頑張っても

数百年後の人たちからは

「21世紀の人」という

大きなひとくくりの中の一人でしかありません(笑)


じゃあ、頑張っても無駄なのか?

というと、そうではありません

わたし達が生きたその痕跡は

これから先の地球の未来につながるのです(=゚ω゚)ノ


今年、わたし達が大神神社に参拝させていただくのも

こういった流れの中でのことなのだなと考えています


21世紀、新しい世紀が始まりましたが

その始まりは争いばかり

20001年の同時多発テロから始まり

今年はパレスチナ問題が大きくなってしまい

今年に入って、戦争までに発展してしまいました

この争いの根源はどこにあるのか?

それは、外に探しても見つかりません


いえ、たくさん原因はあると思うのですが

でも、一番は、一人一人の心の中に

少なからず、「自分の主張」があり

それを、押し通そうとする行動をとった時

それが、ひな型となり世界に反映してしまうのです


「自分の主張」が受け入れられなかった時

なぜか、自分自身が否定された、受け入れられなかったと

感じてしまいます


その時の、その「意見」が通らなかっただけで

その人自身の「人間性」や「存在」が否定されたわけではないのに

なぜか、そう思い込んでしまうのです


だから、人は「自分の主張」を通そうとします

それが、争いのもとになり

戦争を生む機運を生み出してしまうのです


自分の「意見」が認められないという事は

無駄ではないのです

人は多くの無駄を積み重ねて

その間、あいだに

「無駄ではなかった・・・」と思える瞬間を見出すのです


「無駄」「認められない」「失敗」もまた

自分の人生の構成要素であり

その失敗した過去

認められなかった過去を葬り去るという事は

自分の人生を否定することに他ならないのですが


それは、一人の人生のみならず

国の成り立ちにも言える事です


例えば日本なら

神武以前の神話が、ことごとく表舞台から消え去りました

それは、その時々の為政者たちにとって

都合の悪いものだったり

または、何かしらの事情があっての事だったと思うのですが


それらが、隠されっぱなし

隠しっぱなしという事は

この国の成り立ち、あり方を否定することになるのです


だから、私たちは

去年までは「伊勢神宮」という

表に残された日本の始まりの神社を訪ねていましたが


今年からは、裏に回って伏せられた神様たちの神社を

参拝することになったのです


その最たるものが

大神神社であり、奈良の都なのです

京都以前に、そこに日本があった

神武以前に、そこに大和があった

これらは紛れもない事実であり

そこに生きた、一人一人の人たちの人生の上に

今の私たちの人生があるのです


この日本に生きる、わたしの人生は

それらの人々、神々の存在があってこそなのです

個人の人生に「光」と「闇」が不可欠であり

「闇」を否定することはできないのと同じように

この日本という国の神話、歴史にも

「光(名を残したもの)」と「闇(名を消されたもの)」が

両方存在しており

その「闇(名を消されたもの)」をお迎えすることで

本当の、日本の在り方が

自分自身の生き方が

見えてくるのです(=゚ω゚)ノ


長くなりましたが

今年、奈良(法隆寺・飛鳥坐神社)に参拝したことも

これから大神神社に参拝に行くことも全て

本当の自分と出会うための準備とも言えるのです


心の中の争いは

「闇(失敗、否定、恐怖)」を受け入れない事から始まります

大神神社に参拝すると同時に

自分の中の争いを終わらせ

力強く、この人生を生き抜いていきたいなと思いますщ(゚Д゚щ)

この機会に、是非

一緒に、日本神話の古代の聖地へ参拝に行きませんか?

皆さんとお会いできるのを楽しみにしていますー(=゚ω゚)ノ

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