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生活即宗教

 静岡県浜松市の奥山という、その名の通り山深い場所に「皇衜治教カナメ神宮」がというお宮が鎮座している。
「皇衜治教」は「コウドウジキョウ」と読み、「行」の間に「首」の字は「道」の異字であるため、「皇道治教」と記される場合が多い。

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 皇道治教は長い伝統が持つ宗教とのことだが、法人的な話をすれば戦前、木舟直太朗が設立した教団である。木舟家は浜松で有名な実業家・金原明善の親戚で、直太朗も化学工業関係の仕事をしていたらしい。ところが関東大震災の折、吉備晴善なる人物が浜松へと避難してきたことから本格的に宗教と関わることになる。
 吉備晴善は、吉備真備から続く道統の当主であり、二千年以上続くという皇道の秘伝や秘宝を伝えていた。それによると、十五代応神天皇は「乾坤院」という組織を作り祭政一致の中心地としていた。歴代天皇はこれを守り伝えていたが、明治維新により乾坤院は廃止されることになる。明治天皇は「これでは秘伝が途絶えてしまう」と危機感を持ち、吉備家に行法の特殊委任代行を勅命し、継承を託したとのことだった。その際には明治天皇の御召し物なども下賜されたという。

 そんな秘伝にも関わらず、吉備はその全てを木舟家に皆伝したらしい。直太朗の父・貞次郎は五十二代晴善となり、直太朗自身も五十三代目晴善を継ぐことになった。
 こうして宗教活動を始めることになるが、残念ながら直太朗には法律知識が無く、皇道治教を宗教組織では無く会社組織として運用したそうだ。その結果、当時の法に引っかかり逮捕されたこともあったという。

 また、明治帝から下賜された品々もニセモノではないかとの批判が相次いだ。
 木舟家に秘伝を伝えたという五十一代目・吉備晴善は、書籍によっては安倍晴弘と書かれている。陰陽師・安倍晴明から続く本家当主とのことだが、同時代の土御門家には晴弘という当主は管見の限り見当たらない。代わりに土御門晴善という当主がいるため、もしかすると彼のことを指しているのかもしれない。吉備真備は安倍晴明以前に陰陽道を創始したとされているため、吉備家と安倍家の道統が混じっていても不思議ではなかろう。陰陽道は「天社神道」とも言われているが、戦後に皇道治教が「天社」を教団名に冠したあたり、安倍家・土御門家という陰陽道からの流れを意識したのだろう。

 ともかくも木舟直太朗改め木舟晴善は、周囲の疑惑の目や官憲の弾圧にも負けず、この秘伝を守ったのである。昭和十五年に宗教団体法が成立すると、すぐに宗教結社として設立した。戦後も宗教法人として、現在まで道統を伝えている。

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 ところでこのカナメ神宮自体は昭和後期になって建立されたもので、直太朗の次代・五十四代晴善が創建している。五十四代目は村松神息という人物で、元々は「神道カナメ会」という教団を独自に主宰していた霊能者だった。
 村松は因縁切りで人助けを行い、かつては週刊誌やマスコミによく取り上げられた。水俣病患者を診た時には病気の進行が他の人より遅くなったため、地元の医大が「信仰心のある人は病気の進行が遅くなるのでは」と研究対象にした程である。
 その村松が宗教活動をしていた中で知り合ったのが木舟直太朗だった。木舟には跡を継ぐ者がおらず、このままでは皇道治教が途絶えてしまう。そこで村松に継承して欲しいと何度も懇願したそうだ。遂には毎夜夢枕に立って襲名を懇願してきたという。

 こうして村松神息は仕方なく継ぐような形で五十四代吉備晴善となったとのことである。

 村松管長は引き継ぐにあたって、その遺命と道統を守るために社殿を建立した。これこそがカナメ神宮だった。

 カナメ神宮の境内はあまり広く無く、参拝者が歩ける範囲は50メートルも無いかもしれない。丘の上にカナメ大神様を祀った本殿があり、参拝者は丘の下から遥拝する形となる。
 参拝形式も三拍手の後に「カナメ大神様」を三度唱えるという珍しいものだが、近くにある臨済宗大本山・方広寺の境内に似た参拝方式の神社があるので、ここから影響を受けたのかも知れない。

 境内には桜を中心に様々な花が植えられていて、春には花見客が多く訪れるそうだ。実際、豊かな自然と手入れされた自然が綺麗に調和している。
 特に大きな宗教施設でもない。参拝した時の印象は「各地によくある、宗教的な単立神社」という感じだった。

 まさか、この小さな教団が過去に世間を騒がせ、「宗教法人法の成立の一因ともなった」とまで言われているとは、とても思えなかったのである。


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