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紫陽花邑の話

 数年前、奈良県の「大倭教」という宗教の本部に参拝した時のことである。突然の参拝にも関わらず、職員の方がすこぶる親切に対応・説明して下さり、再度参拝したいと素直に思いながら教団本部を後にした。
 その数ヶ月後、偶然手に取った松沢呉一『新宗教の素敵な神々』に大倭教が取り上げられていた。なんでも取材条件に「褒めないでくれ」というのがあったという。謙虚な態度にますます興味を持ち、参拝時に頂いた冊子などをパラパラと読み返してみた。


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 大倭教の教祖は矢追日聖という。本名は隆家といい、教団では「法主」と称されている。
 明治44年、隆家は大倭神宮の神地に住む矢追家に生まれた。大倭神宮は矢追家の「邸内社」とも言えるものだったが、その伝承は古く神代にまで遡り、境内にはスサノオがヤマタノオロチ退治後に妻とした奇稲田姫の墓とされる場所がある。ただし、隆家が生まれた頃には神域の「鵄の森」も維新以降の開化政策により切り開かれていた。
 そして、そこに住む矢追家の人々には代々霊能力を有する者が多かったという。

 隆家が少年の頃に、両親は神社から離れて大阪で事業をするも失敗。隆家自身も虚弱体質から公立中学校への進学が叶わず、大阪の私立へ進学した。
 この頃から矢追家の人間として隆家も神示を受けるようになるが、どうも本人はそれが嫌だったらしい。こういった矢追家の霊能力は祖先から伝わる誇大妄想や精神異常が遺伝してるに違いないと考え、神示に反抗し続けていたそうだ。霊的な現象にあっても簡単には信じられず、科学的根拠を求めた。
 このように「宗教的なもの」を嫌悪していた隆家だったが、人助け・世直し的なことをしたいという願望は持っていた。これは母親の影響が大きいようだ。矢追家の経済状況は苦しかったが、息子に変な気を使わせまいと母親は必死にそのことを隠し、隆家もそんな母親の気遣いを察して物は大事に使っていた。隆家がどうしても金銭が必要で母親に頼んだ時には、求めた金額よりも大目に出してくれた。そんな母親の真心・大慈悲に触れていたことからか、不幸な人を助けたいという気持ちも自然と養われていった。
 ただし、人助けといっても”宗教による”人助けには気が無かった。宗教よりもあくまで実業や教育、政治などで成功して人助けをしたいという実務的な方面で考えていたようである。

 ところが青年期になって、「反宗教的思想の為にはまず宗教を学ばなければならぬ」と思い立つ。隆家は様々な本を読み勉強した。そんな中で出会った「日蓮」の教えに魅かれ、結局、宗教系である立正大学に進学した。
 こうして宗教を学ぶために入学した立正大学だったが、在学中に隆家は今まで知らなかった僧侶の内情などを知ることになる。外からは見えなかった僧侶の”面白くない内情”を知ったことで、隆家の心は宗教的なことから離れていき、興味はむしろ唯物史観に立つ考古学に向かっていった。
 こうして在学中は考古学を学び、史学科卒業後には学校の先生や事業を行っていた。その間もずっと神示は続いていたという。

 やがて昭和10年代となり皇紀2600年が近づいてくると、世間では聖蹟顕彰運動が活発になってきた。日本神話や神武東征の舞台となった各地の史跡・聖蹟を顕彰しようというもので、隆家もこの運動に全力で参画することになる。
 神武天皇東征の話の中で、大和を統治していた長髄彦の軍勢との戦闘中に『金鵄』が神武天皇の弓に止まり、目がくらんだ敵軍を倒すことができたという場面がある。矢追家には、その舞台こそ大倭神宮だとする家伝が残っており、「金鵄発祥の地」を顕彰する為に隆家は全事業を放棄して運動を開始した。
 何度も上京し、軍人や高官などを周って大倭神宮のことを説明したが、その中で多くの人脈ができたという。
 そんな運動を続ける中で、昭和十四年、東京で知り合った人からある場所を紹介された。そこは『金の玉御殿』という施設だった。

 この施設は神殿もある天主閣のような特殊な建物で、かつては「大日本世界教」と称した財団法人・稜威会が入っていた。稜威会を率いていたのは川面凡児で、この『金の玉御殿』を本部として使用していた。
 しかし川面が昭和4年に亡くなって以降は様々な人がここを使用するも長続きしなかったという。川面の死後十年が経ち、もはや廃墟と化していたため、周囲からは「オバケ屋敷」と呼ばれていた。当時、金の玉御殿は財団法人八紘会の所有物だったが、その八紘会も活動休止中だった。
 丁度この頃は矢追家の宗教活動も活発で、母親の神通力を頼って多くの信者が集いはじめていた。隆家自身もそうした環境の中で宗教活動には積極的になっていた時期で、母親や信者など大倭神宮関係者全員で話し合い、この金の玉御殿を財団法人八紘会ごと買収した。昭和15年(皇紀2600年)のことだった。
 当時の宗教行政上、神社は基本的には国家のものであり国営である。それ以外で実質的な「公共の神社」状態になる方法は少なかった。しかし財団法人として認可を受けることで会員であれば誰でも参拝できる状態となり、法的にも問題は無くなる。こうして大倭神宮は晴れて矢追家個人の邸内社から公的なものとなった。

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大倭神宮境内の金鵄勲章をかたどった石碑

 その一方で、金鵄発祥の地は大倭神宮以外にも認定を望む場所が多く、結果的に大倭神宮は認定されなかった。現在は生駒市の鵄山に『金鵄発祥之処』の石碑が建っている。この認定を望む場所同士での争いは酷かったらしく、大倭神宮が「政府公認の神社」ではないことに目をつけられて、裏に手を回され「禁止されている神社類似施設だから撤去せよ」という県令が出されたこともあったという。この撤去命令は出した奈良県行政・警察側もあまり乗り気では無かったらしく、隆家の抗議に対し、「県令の撤回は出来ない代わりに鳥居でも灯籠でも、ちょっと動かした時点で撤去と認める。撤去した後にまったく同じように再建してよい」との話でまとまった。そして撤去当日には鳥居の撤去作業を始めてすぐ警察が「撤去と認めます」と言い残し確認もせずに帰っていったという。

 ともかく皇紀2600年となり、日本各地で記念行事が行われ大いに盛り上がった。陸軍では神武天皇と長髄彦の軍勢が戦う様を模した演習を行うことを決定、演習は京都師団が行うものであり、師団長らは演習の打ち合わせもかねて大倭神宮に参拝したという。当時の京都師団(第16師団)の師団長は石原莞爾だった。隆家は聖蹟顕彰運動で東京にいる要人と多く接触していて、その時のコネクションもあってか石原とも親しかったという。

石原莞爾00

参拝にやってきた石原
(引用元:『法主矢追日聖年表』)

 この記念行事の後、日本は対米戦と向かっていくが、この時期の八紘会は海外からの留学生の世話なども行っていた。対米開戦後には特に蒙古からの留学生を受け入れていたという。こうした八紘会の顧問には陸軍大将の松井石根や小磯国昭という大物がついていた。しかし当局からは監視対象とされたいたようで、理由としては八紘会が目指す「八紘一宇」と、帝国政府が目指す「八紘一宇」の齟齬だったという。隆家は「アジアが仲良くするための聖戦ならば天照大御神は内地より持ち出さずに、満洲なら満洲民族の、台湾なら台湾民族の祖神を祀るべき」と主張していた。占領地や外地に次々と神社を建立するも現地神は祀らず、天照大御神をはじめ日本の神ばかりを祀る当時の帝国政府の方針とは考え方が違っていたようである。

 昭和18年の年末、32歳になっていた隆家に徴用令状が届く。結果的には身体測定で落とされたが、その日に「大倭に帰って農耕をせよ」との神示が降された。隆家はその神示に従い奈良へ帰ることを決意、昭和19年にかけて金の玉御殿も鉄道省に貸出す形で手放し、家財を整理して大倭に帰った。ちなみに後の東京大空襲で金の玉御殿は灰燼に帰した。  
 農具を揃えて農耕に励むが、帰農するにあたって手に入れた土地は山奥でまったく開拓されておらず、苦しい日々が続いた。東京の豪邸を捨てたからか、はたまた誰も開拓したがらない所に挑んだからか、周囲からはキチガイ扱いもされたという。
 終戦までの間、母に降りた神示に従い、「皇居を奈良に遷せ」「大倭神宮を国家祭祀すべし」「神政内閣を樹立せよ」などの上申書を政府に出したらしいが、自分が大倭教に参拝した際にはこうした上申書に見られるような激烈な印象はあまり得られなかった。

 そして迎えた昭和20年8月15日、天皇陛下御自ら詔をラジオを通して国民に終戦を伝える玉音放送が流れる。と同時にこの日、大倭神宮で頭を下げた矢追隆家に神示が降りた。
 この時の隆家には敗戦直後だというのに世界中に日の丸が立った地球儀のビジョンが見えたという。
「お前の分(ぶん)はこれからや。一生を通して本当のお役目はここからはじまるんや。」
 これが立教開宣となり、矢追隆家は「大倭教」として本格的に宗教活動を開始した。この時から神に頂いた日聖を名乗りはじめ、翌年には新たに発布された宗教法人令のもとで「大倭教」として登記した。昭和22年には現在の地を教団の本拠地とし、「地下水の如く清く流れ、紫陽花の如く美しく咲け」との神意から「紫陽花邑」と名付けられた。

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 現在、矢追日聖法主が開いた「大倭紫陽花邑」の付近は住宅地やゴルフ場に囲まれている。この地にインフラが整備され街が開発される以前から大倭教が開墾していたためか、紫陽花邑の住所名は「大倭町」となっていた。天理市や金光町と並ぶ、教団が地名に影響を与えた事例だろう。
 日聖法主は戦後直後から農耕を続けながら広宣流布を続けた。活動内容は大倭神宮への奉仕の他にはどちらかといえば社会福祉に近いものが多い。年表を見る限り、戦後直後の食糧難から信者と共に農耕を営んだり、戦災孤児や家出した人などの受け入れ先となったり、軍手製造や金属加工などの職を作ることで生活の基盤を提供したりといったことばかりである。法主が青年期に抱いた「実業や教育・政治で人を助けたい」という考え方が影響しているのであろう。この開墾地に大倭大本宮を創建し、生家の大倭神宮から勧請するなど、次第に教団本部として整備されていった。
 70年代には日本各地で俗世間を離れて共同生活を行う「コミューン」が多く登場したが、「大倭紫陽花邑」もそのひとつとして見られていたようで、アサヒグラフの連載「にっぽんユートピア」の第一回で取り上げられた。当時はかなり有名だったらしく、「炭洞再活園」というハンセン病患者社会復帰の為の村を創設した韓国の呉済天牧師や、インドのガンジー塾の人などが視察に来たそうだ。宗教団体のコミューン的なものとして他に京都の一燈園や松緑神道大和山などが思い当たる。
 冒頭の『新宗教の素敵な神々』は平成七年に出版された新書であるが、この時「褒めないでくれ」と言ったのは、コミューンとして「信者の生活があるため参拝に人が集まると対応できない場合がある」という理由だったらしい。
 かつては農耕や工場が主軸だった「大倭紫陽花邑」も、時代や人々の生活レベルの変遷に沿って変化しており、最近では病院事業や介護事業が主になっていた。ただし、その病院事業も参拝した数年後に移譲されていた。

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 中心となっている大倭大本宮には賽銭箱が見当たらない。そもそも大倭教において神様とはお賽銭を投げいれて願うものでは無く「自然の営みそのもの」とのことだ。
 教団の「大倭」についても、元の大倭神宮だけでなく「大故郷(おおおやもと)」から来ているらしい。
 奉斎主神の神名は「 太加天腹大神(たかまのはらおおかみ)」で、宇宙創成の気、太元霊とする。
 ただし、かつての雑誌の掲載記事や実際に参拝した印象では、「教義」よりも「社会福祉」を重視しているようで、当時の矢追日聖法主のインタビュー記事では「教義なんて無い」という感じであっけらかんと答えていた。

「私のいう宗教いうのは、社会の人たちがみな幸せになっていくように、その方向を示したり、お手伝いしたりするのが役目でね。広い意味での社会福祉なんです。(中略)だから、ここの宗教いうたかて、教義がなんじゃら、教えがなんじゃら、そんなもん何もありませんよ。(略)そんなもの、何前年も前から先覚者がみんないうてきたことばっかりですがな。」

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 その矢追日聖法主も、「教祖」というよりは「先生」という感じで周囲から親しまれていたそうで、いつまでも信徒や共同生活者と共に農耕を行っていたそうだ。当時の雑誌や、大倭教を取り上げた書籍に掲載された写真を見ても、一緒に何かをやっている写真が多いように感じた。

 平成八年に矢追日聖法主は帰幽した。大倭大本宮境内には「神倭聖徳法主日聖」と掲げられた奥津城がある。

 自分が参拝した際、応対して頂いた部屋に矢追日聖法主の写真が飾ってあった。なんでもアサヒグラフが取材に来た際、信徒と共に農作業をする日聖法主を撮影したものらしい。農具を手にする自分の写真を見た日聖法主はたいそう気に入り、自分の葬式の遺影にはこれを使ってくれと言ったそうだ。現在でもその写真が法要に使われているという。日聖法主の人柄の一片をなんとなく感じ取れた気がした。

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【主な参考文献】
松沢呉一『新宗教の素敵な神々』(平成七年、マガジンハウス)
『法主矢追日聖年表』(平成二十四年、大倭出版局)
現代宗教研究所『紫陽花邑』(昭和四十一年、フェイス出版)
週刊新潮編集部『信じることは救われるか 日本の求道集団を探訪する』(昭和五十五年、東京白川書院)
松野純孝『新宗教辞典』 (昭和五十九年、東京堂出版)
機関誌『おおやまと』
大倭教々庁『加美のまにまに』

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