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産めないからだであっても


産めないからだであることを、必要以上に悲しみたくないと思って生きている。



自分の状況をじつは楽観視しているわけでも
もはや妊娠を諦める時期に差し掛かりつつあるからでも
子を持つことを望んでいないから でもない。


いずれ治療法が見つかる日が来たとしても、それは少し先の未来だろう。
アラフォーと言えども、都会にすむ年上の友人たちが
静かなベビーブームを迎えているくらいには、まだまだ出産可能な年齢である。

一緒に生きていきたいと思う人がいれば、「この人の子どもを産みたい」と、心から思う。
兄弟の子どもも、友だちの子どもたちも とてもかわいいし
子どもと暮らす生活は、眩しいくらいに輝いてみえる。
わたしもいずれ子を産み、育てたいと思っている大多数の女性の一人だ。



一見健康に見えるのだから(実際に健康である)
産めないからだであることを知らなければ、違う生き方もあっただろう。

子を産むということが人生の中で大切な意味を持てば持つほど、産めないことの生きづらさは募っていく。
悲しみが深いほど、おそらく自分にとって一番大切なひとに
その悲しみを背負わせることになるのではないか、という苦しさ。

未婚であって、そっと そのことを抱えて生きるということ。
生き方の選択の難しさ。
未婚であっても、一人でいても
それを望む人にとって、不妊は目には見えない障害なのだ。



「血の繋がった子どもが欲しい」
そう、共に過ごしてきた人から告げられた時、それを叶えられない自分を責めることしかわたしにはできなかった。
子を産むことだけが一緒に生きていく意味ではないはずだと わかっていても。


いろいろな価値観があり、いろいろな家族の形もあり、ほんとうにさまざまな生き方があると知っていても
負い目を感じ、自分を信じられなくなる日はふと訪れる。

それでも。


わたしはもう、必要以上に悲しみたくないのだ。

みなにそれぞれできないことがあって、できることもあるのだということ。
そんなわたしだからこそ、共に過ごせるひとがいるのだということ。

わたしはわたしを、精一杯に活かして生きていけばいい。




少しずつでも自分を、認めながら生きていく先に

いろいろな価値観や家族や生き方が認め合う
そんな世界が きっと広がるはずだ。


悲しみに負けずに生きること
それがわたしなりの、その世界への第一歩だ。



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