なにもかも論理的に考えるのは疲れる
去年休学してインターンシップをしていたときには、あまり言われてなかったのだが、大学内ではよく言われることがある。
「のさかくんは論理的に考えられるから、羨ましい。」「のさか氏は論理的やから、ディベートとか絶対に上手いと思う。」
これだ。僕が論理的だ、ということだ。
確かに僕は、論理的に考えることはかなり意識してやっている。論理的に考えないとマーケティングなんかできないし、客観的に何かを説明する事もできないからだ。
だけど、僕が元から論理的な思考ができる人間だったかと問われると、全然そんなことはなかった。
昔から国語の筆記テストの点数は低かったし、インターンの選考会でグループディスカッションをすれば、「もっと論理的に考える癖をつけた方が良い」と選考官からよく指摘を受けてきた。
当時は「論理的に考えろ」と言われても、「論理」がそもそも何かよくわからなかったし、どうすれば論理的に考えられるのかもわからなかった。
よくアドバイスされるように「なぜそう考えたのか?」で掘り下げていっても、どこまで掘り下げればよいのかも分からなかったし、掘り下げる方向がおかしなことにも気づかなかった。そんな、非論理的人間だった。
だから、「論理的に考える」ということを突き詰めて1年くらい経ったある日に、ふと「あ、これが論理的に考えるってことかぁ!」と気付いたときは結構嬉しかった。
「論理的に考える」ということは、センスが無い人からすれば、それだけ経験によるところが大きいのだ。
ただ、そうは言っても「論理的に考える」ことは意識せずともできることではない。少なくとも、僕は意識しないとできない。
だから、何らかの課題を論理的に考えているとき、かなり頭を働かせている。明らかに普段とは全く違う頭の働かせ方をしている。
元来、僕は直感的な人間だ。「なんか、こんな感じ!」みたいな言葉が大好きな人間だ。
何もかもを論理的に考えているわけじゃなくて、授業で出された課題とかプレゼンとかの時だけ、論理的に考えるようにしているだけだ。
何もかも論理的に考えるなんて芸当は僕にはできない。というか、そんなことをしてたら疲れる。知らない間に感覚的になっていたりする。
そんなわけで、普段から理論整然と滞り無く話ができる人は本当に凄いと思う。あれ、疲れないのかな?
僕も少なくとも自分が直感的に感じ取れることくらいは、ちゃんと他人に分かるように話せるようになりたい。だからこそ、こうやって文章を書いて論理的に考える努力をしていたりするわけだ。
非論理的な人は、直感的に色々感じ取っているんだから、その直感を大切にする意味でも文章を書いたほうが良いと思うなぁ。
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