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私は庭の隅にある小さな菜園の手入れをしていた。
玄関脇の沈丁花が香り、今日はよく晴れている。
じっと屈んでしばらく土いじりをしていても、もう肌寒さを感じないほどに外は暖かかった。

すると向こうのほうから男がひとり、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。男はそのまままっすぐ、私の庭まで入ってくると、私と目があって止まった。
この家に人が訪ねてくるのは何年ぶりだろうか。父が亡くなってから、私はひとりでこの古い木造の家に暮らしている。
ひとり暮らしには少々広いが、時間は多く持て余しているためとくに問題にはならなかった。
子供の頃から住み慣れたこの家を出て暮らすのが、私は怖かったのだ。

「こんにちは」私は手を止めてその男に声をかけた。
しかし男はきょとんとして、こちらを見つめるだけで何も言わない。
ぎこちない自身の声だけが耳に残り、恥ずかしくなった私は少しムッとして手元に目線を戻した。

男はしばらくそこに立っていたが、スッと私の横を通り過ぎ、そのまま縁側の日当たりのいいところへ腰掛けた。

父の知り合いだろうか。もしかしたら私も、以前に会ったことがあるのかもしれない。
だが、一度無視をされているので、私はさも気になどしていないというふうな様子で、顔を上げずに気配だけを注意深く探った。
男は縁側に腰掛けたままじっとしている。

やはりなんとなく落ち着かず、そうするといつもは気にも留めない、爪の間に入った土などが気になりだした。
日差しの眩しさやら、手元に見える情報ばかりが意味もなく脳内に流れ込んできた。

男は少し汚れたような地味な色の格好をしており、あまりそういったことには頓着がなさそうだった。
ズボンの膝のところが、擦れて薄い色をしていた。
菜園の手入れをしていたのだから、私も人のことを言えたような服装はしていないのだが…縁側は昨日掃除したばかりなのに、と思った。

お互いに黙っているうちに、男はうとうとしていたようだ。私も、男のことがあまり気にならなくなっていた。

とはいえ、私ひとりが食べるぶんだけの趣味の小さな菜園だ。ひと通り作業も終わり、私は間引きのついでに味噌汁に入れるつもりの二十日大根の小さいやつとその他の道具やらをガチャガチャと抱えて立ち上がる。
私の気配に男も目を覚ましたようだった。

土をはらい、縁側から上がって台所へ向かうついでに私は男にさっき取った二十日大根を見せてみた。
男は二十日大根をじっと眺めたが、すぐに興味をなくしたようだった。なにも言わない。
なんの変わったところもない、ただの二十日大根だ。当たり前だろう。
私はスタスタと奥へ進んだ。

時計を見ると、もう昼を少しまわっていた。
私はそのまま台所に立ち、食事の用意をすることにした。
相変わらず男は何をするでもなく、静かに縁側に座って、なんとなく庭に降りてきた鳥なんかを見ているようすだった。

「父の知り合いですか」台所から、私はぽつんと声をかけた。
男はこちらを見ると「あぁ…いや、」とだけ言った。
そうか、父が亡くなってもう5年になる。今さら訪ねてくるような友人もいないだろう。
元々寡黙な人間で、家の中でもあまり口数の多いほうではなかった。
時折ぽつぽつと、庭木のことや物置のドアの建て付けについて、私に指示を出すくらいのものだったから、親子二人のこの家はいつもしんと静かであった。
男はまた目線を庭に戻し、私も包丁をトントンとやりだした。

スーパーへ買い物に行くのは年に2回くらいだ。
古い軽自動車も、出かける用事があるたびにもう動かなくなっているんじゃないかと思うほど、年季が入ってホコリを被っている。それくらいにしか使わないのだから、動かなければ動かないで構わないと私は思っていた。
食事は庭でとれる野菜と年2回の買い物で買ってくる缶詰などだ。
仕事も今は昔馴染みの顧客がぽつぽついるだけで、パソコンさえあれば人と会う必要もなく、そんな生活をしているとますます人と関わるということが億劫になってくるのだった。
たった一人で身の回りの全てをこなすことよりも、他人とコミュニケーションをとることのほうがよっぽど面倒に思える。同じ言語を話していても、所詮自分以外は皆、宇宙人なのだ。私には理解ができない。
いつしか敷地の外を通る人間のことを、自分と同じ種類の生き物だと思わなくなった。
言葉も通じない、意思の疎通もとれない。私には外を歩く人間が、庭先に来るスズメやときどき迷い込む野良猫と同じだった。

そんなことを考えながらいると、味噌汁がぼこぼこと沸いているのに気付き私は慌てて火を止めた。先程の二十日大根の葉を入れた味噌汁と、茶碗にごはんをよそい、鯖の缶詰の蓋を開け、そのまま居間の机に運ぶ。
「食べていくか」と、声をかけようと縁側のほうを見たが男はいない。
塀を渡り、庭木がこちらまで伸びてきている隣の家のほうへ見えなくなる直前の後ろ姿が一瞬見えた。

(そうか・・・)
私は黙って立ち上がり、開けていないほうの缶詰を戸棚へ戻しに行った。

ぱらぱらと、金属の器に乾いた粒々が注がれる音が聞こえていた。



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