「無気力」であることを自分で容認した一週間

ホテルにきた、二週間ぶりに。

土日。

朝、起きたいと思える環境に整える」ことを前は意識していたけど、それを忘れていたな、と新鮮な気持ちを思い出した。

オンラインのライブ配信を土曜の夜は暗闇の中みながら。日曜は、最近ハマっているハンバーガーめぐりで、近くのジューシーバーガーを頼んだ。


カードも始まったので、今まで契約できなかったアマゾンやキャンプファイヤーの支払いも完了して、そして「ワイヤレスイヤホン」まで買ってしまった。

最近まで少しサボってた運動も、「スポティファイ」も再スタートして、懐かしのプレイリストをまた聞けるのにテンションが上がるし、

4分間のHIITを見つけて続きそうで嬉しい。

「あれもこれもやっていない」って感情になると、とても心がスカスカするけど、あれもこれも出来たって、「ちゃんと記憶を言語化してあげると」実感があるんだな。


私よ。


心がすかすかになることに、落ち着かないで。


心がある種、SOSをあげているってことなんだよ。



先週は、「THE 無気力」だった。

ほぼ仕事していない、月〜水曜までだらけて、「明日はやろう!」ってきめたが木曜日もサボって、

ちゃんと朝からデスクに向き合ったのは金曜日。

月曜日の夜、久しぶりに大量の人に出会ったこと、ストレスを強く感じたこと、そのさなかで認識をしながら過ごしたこと、が一層ストレスになった。


そんな自分を、容認した。

それでいいのだと。

だって、にんげんだもの。と。


生身の人間だから、「毎日同じパフォーマンス」って、精神状態・体調含めて無理だと思っている。

そもそも「毎日違う」から、それをちゃんと「自分がキャッチしてあげる」ことが大事だと思う。

それに合わせて、「今日は何をたべようかな?」「どれくらいの量?」「蒼きて、何をしようか?」「どれくらい休みながら仕事をしようか?」「ナン時までに終わって、何をしようか?」

そんなことを自然と組み立てられるといいよね。


でもかいてて思ったけど「ネガティブな方向の」無理、は感じたくないな。「自然の摂理だから仕方ない」のはわかるけど、「だから今日はネガティブな気持ちになるんだ」って自分の「後ろ向きの理由」にはしたくない

気を抜いて、休憩するときは、全面的に容認してあげればいいし、それが必要なんだけど。


とかいいながら、明日からはじまる一週間も、「サボり」から始まりそうだよ。

仕事をすることで、「楽しい」と思う瞬間ってたまにある。それは、お客さんと話すときや、社内で貢献できたとき、自分なりに学びをゲットした時とか。

でもそれって、私の人生の「マスト」で必要なものじゃないって思っているんだな。

要は、「人生と仕事の紐付け」ができていない状態。


だから、その日のモチベーションに、仕事が左右される。


前は、こんなふうに「プロ意識」をもたない自分なんてありえないと思っていた。

新卒時代、仕事に夢中にならない、出来ないくせに時間を投資することを居たがる民をとてつもなく心から批判した。

「なぜ、仕事に一生懸命にならないのか」が、疑問だった。


でも今は、向こうの気持ちがわかるようになった、向こうの立場に自分が立っている。

「もっと頑張ってほしい」と思っている他者の思いを、なんとか「私はその人のために活きているわけでも、会社のためにいきているわけでもないから、思いを汲まなくても大丈夫」と思っている。

前は、そんなことを一切思わなかった。


HSPは、人の期待や感情を受け取る。報酬が明確になくても、相手のことを優先し、自分のことを後回しにする。

その典型的な状態だった、あの頃。

そして、その状態だったことに気づいた、今。

「自分のことは、自分で守るのだ」「自分の人生なんだから、もっと自分のわがままに」「誰にも搾取されない人生を」

そんなことを、人生で初めて意識するようになった。


そしたら、仕事の仕方も変わってきた。

仲間で一丸となって心身ともに疲弊しながらも大きな感動を手にいれる、部活動のような、青春の1面のような状態。ではなく、

それも勿論手に入れたいけど、趣味や副業二時間を使えなくなるんだったら、「そこまでは求めなくていいや」と思うようになった


要は、「程々でいいや」という状態。

前は、そんなこと一ミリも思わなかったし、絶対にいやだった。自分自身が「突き抜ける」ことが大事で、そこに向かっている自分が経験として誇りになり、やり抜くことへの自信につながっていた。


・自分の「好き」を見つけたくなった、見つけたものを大事にしたくなった

・誰かのために、ではなく、自分のために。を意識するようになった

・集団の中にいても、自分をなげうつのではなく「自分を守る」選択をするようになった(その状態を客観的に察知できるようになった)


何も知らない、が故に何かを知るために、得るためにがむしゃらになっていた時期。

今は、「ある程度自分のことを知って」「対話をして」、

「このままだっていいじゃない」と思うようになって「目先の幸せ」を実感するための振り返りをするようになった。


「おとなになった」「落ち着いた」って、ことなのかもしれない。

私はもう二度と、「がむしゃらに生きた私」に出会えないのかも知れない。

世間知らずで、怖いものなしだった。自分の世間的な立ち位置ではなく、「何者かになりたい」が先に立って自分を突き動かしていた、頃の私。


もう二度と、あの動物のような、否かを捨てるように自分自身をイチから作っていた可愛そうで愛おしい私には、出会えないかも知れない


そう思うと、なんだか涙がにじむ。

さなかにいるときは、「これが青春」だとわからないけど、終わってみて過ぎてみて振り返ってみて「あれが青春だったのか」を気づくもの。



生き急ぎすぎたかな。


もう疲れてしまったかな。


もう一度、火を付けるには、おそすぎることのないけど。


まあ、DJ機材を買ってみたり、音のきれいなワイヤレスイヤホンを買ってみたり、オンラインだけどコミュニティに入ってみたり。

この期間じゃないと話ができない人と一対一でオンライン飲みしてみたり。


「燃えるもの」を探し、トライしているんだよね。


そして、先週の大きな学びの一つは

もやもやする。のは、「時間があるから、もやもやするのである」

暇があるってことです。悪いことではないんだよ、勿論。


時間があるのです。だから、隙間ができて、が故に悩んでしまうこともあるんだよ。

考える時間がないほどに、走り続けることだってある。

自分で選択できる。


もやもやすることに溺れて思考停止になるよりは、「メタ思考」で、自分を俯瞰的に見れるように情報収集したりリセットしたり

それを無理なくできるようになりたいね。