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誰かを攻撃したいという気持ち

 「卒業文集最後の二行」といういじめを主題にした道徳教材があります。主人公の私は人を見た目で判断し、集団であることを盾に罪悪感すら覚えることなく、こともあろうかカンニングという自分の罪さえなすりつける。そんな私の心に「大いなる悔い」を与えてくれたのは、彼女が卒業文集に書いた最後の二行だった。
「私が今一番ほしいものは、母でもなく、本当のお友達です。そして、きれいなお洋服です」
 私の抱いた「大いなる悔い」とはいったい何だったのでしょうか。果たしてそれが何であれ、生涯にわたって彼が逃れることのできない罪であることは確かです。

海のような広い心で、悠々と泳ぐ私たちでありたい。

 言うまでもないことですが、「いじめ」は何があっても許されるものではありません。しかし、報道でも目にするように「いじめ」によって傷つく人が後を絶たないことも、また事実です。
 だからこそ、私たちは、「いじめは絶対にダメだ」という理解から一歩踏み込み、「なぜいじめがなくならないのか」「どうして人はいじめをしてしまうのか」「自分にできることはないのか」を考える必要があります。

メジナという魚は、海の中では仲良く泳いでいます。ところが、狭い水槽 に入れると、1匹を攻撃し始めるのです。では、その攻撃されてケガをした1匹のメジナを、別の水槽に移すと、残ったメジナたちはどうなるのでしょうか。
 なんと、残ったメジナたちは、また新たに他の1匹を攻撃し始めるの
だそうです。そして、その攻撃されたメジナを、また別の水槽に移しても、また次の1匹が攻撃される。狭い水槽の中で、同じことが繰り返されるのです。

 時に人は、「誰かを攻撃したい」という気持ちになってしまうことがあります。ストレスが溜まったとき、イライラしたとき、そんな不安定な気持ちを人にぶつけたり、陥れることで自分を正当化したり、人間には誰しも、そんな弱いところがあります。
 私も人間ですから、その「誰かを攻撃したい」という気持ちや、みなさんの中のそういう気持ちを頭ごなしに全否定することはできません。でも、その気持ちのままに誰かをいじめたり、差別したりすることは、絶対に許せません。大切な、みなさんのうちの誰かがいじめられるようなことがあれば、私はとても胸が苦しく、つらい気持ちになります。

 人間の弱い心に支配されてしまいそうになったとき、あるいは誰かがそうなってしまったときには、みんなで話し合ったことや「わたしのせいじゃない?」という詩を思い出してください。
 「自分自身のいじめにつながる気持ちや弱さと向き合うこと」。そして、私たち一人ひとりに「自分自身がいじめをなくすためにできることがあること」に、どうか気づいてください。
 メジナの話のように、みなさんの心が水槽のように狭ければ、残念ながらいじめが起きてしまうかもしれません。でも、みなさんの心が、海のように広ければ、攻撃されるメジナがいないように、いじめのない、誰もが悠々と海原を泳いでいく、そんな集団や仲間でいることができます。
 たとえ1人分の心が狭くなってしまったとしても、お互いに温かい言葉や優しさを分け合うことで、心を潤し、癒しながら、ともに前に進んでいきましょう。

学校のやすみじかんにあったことだけど
わたしのせいじゃないわ

はじまったときのこと みていないから
どうしてそうなったのか
ぼくはしらない

ほんとうは わたし みたの
だからしっているの
でも とにかく わたしのせいじゃないのよ

ぼくはこわかった
なにもできなかった
みているだけだった

おおぜいでやっていたのよ
ひとりではとまられなかった
わたしのせいじゃないわ

おおぜいでたたいた
みんなたたいた
ぼくもたたいた でも ほんのすこしだけだよ

はじめたのは わたしじゃない
ほかのみんなが たたきはじめたのよ
わたしのせいじゃないわ

自分のせいじゃないか
その子が かわっているんだ
ほかの子はみんな ふつうなのに

考えることがちがうんだ
ぜんぜんおもしろくないんだ
自分のせいだよ

その子は ひとりぼっちで立っている
おまけに目をとろんとさせて
泣いているんだ

泣いている男の子なんて
さいていよ
おもしろくない子なのよ

先生に いいつければいいのに
よわむしなのよ
わたしには かんけいないわ

そんなことがなかったら
その子のこと ほとんどわすれていたわ
なんにもいわないんだもの

ひとことも しゃべらなかった
ぼくたちを みつけていただけだった
さけべばいいのに

たたいても わたしは へいきだった
みんな たたいたんだもの
わたしのせいじゃないわ

わたしのせいじゃない?

わたしのせいじゃない―せきにんについて Leif Kristiansson

あとがき

 元も子もないですが、人は本能的にいじめをしてしまう生き物なのだと思います。いじめというと子どもくさい表現になりますが、つまり、自分が受け入れられない存在に対して排他的になったり、自分の心理的安全性を守るためにスケープゴートを仕立てたり、優位性を誇示するために蔑んだり。
 思春期という自我が不安定な時期であればなおさら、他者を傷つけていることに無頓着になるほど、自分を守ることに必死で、まわりが見えなくなってしまうのだと思います。
 そんなときに、「いじめはだめ」という強い言葉で非難するだけでは、まるで「いじめ(をしているあなた)は(人間として)だめ」と自分をまるごと否定されてしまった気持ちになって、怒りや自己否定というネガティブな感情に吞み込まれてしまうかもしれません。
 誰もが弱い存在で、もがいていて、失敗もする。でも、誰もが自分の過ちに自分で気づき、立ち上がり、正す勇気を持っている。それを私は信じている。あなたのことを信じている。
 そう伝え続けることが、いじめを許さない心を育てるのではないかなと思っています。

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