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表現者にしか売りたくない

 私は、最近、自分が表現を通じてやりたいことと最も近いことをやっている表現者に出会った。
 その人は写真家だった。
 日常的に作品を作っていない人の表現者性を、その人を写真に撮ることを通じて開花させるような写真行為をする人だった。
 一連の写真行為において、その写真家は、彼本人の人間性で被写体と関係性を築き、撮影をすることによってその関係性を歪ませ、破壊し続けていた。暴力や乱暴な言葉などはなく、ただ写真を撮られ続けるために、被写体は自然と表現者として立たざるを得なかったのである。

 私は、表現者と鑑賞者なんていう括りはそもそもないはずだと思っている。今、目の前の舞台に上がっている側と、それを見ている側にあるのは、ただ表現したものを外に出しているかいないかの小さな違いでしかない。詩人最果タヒさんが自身の詩集「空が分裂する」のあとがきで書いていたことが私の考える表現者像に最も近いのだが、そこに書かれていたように、ノートの端の落書きや、散歩の時につい口に出ていた鼻歌でさえ、表現だと私は思う。ふと口から出てしまったひとりごとも、ツイートの「眠い」も、あなたの一挙一動も、全て表現。だから、作品を世の中に出したとき、それを鑑賞者にしか見られていないと感じたとき、つまり、作品を見た人を鑑賞者にとどめてしまっていると感じた時、いつも心から悔しいと思っている。
 そして、私は自分の作品を、表現者にしか売りたくない、とすら思っている。
 「観客参加型演劇」というものがある。役者が劇中、観客に話しかけるような芝居。観客を巻き込むような芝居。だけど私はそうやって具体的なアクションで観客を物語に巻き込もうとしなくても、人の前で演劇をやろうとしたのならば、それは当たり前に「観客参加型」だろうと思う。人がいることで見たことで作品が変化しないなんてことは全くなく、何か具体的なアクションを起こさなくても、あなたが見たことで作品は変わる。変わってしまう。美術館で絵を見る私の後ろを知らない人が通ったとき、その人の靴の音は私の鑑賞体験に影響を与える。その影響は、鑑賞者としての自我を持っている人が思っているよりもずっと大きいのではないだろうか。そのくらい作品は繊細なものだと思う。でもそれは、作品を見ることは大きな責任が伴うから覚悟しろ、というわけではない。人に見られることを前提として作られた作品は、そう変化していくことすらポジティブな意味で作品の一部となるはずである。そのため、私にとっては、作品を鑑賞者として見ることの方が特別だと感じてしまうということなのだ。どうして、わざわざ自分を鑑賞者と位置付けて、一歩引いたところから作品を見ようとするのだろうか。あなたはあなたとしてただ見たら良いのに。オタクとして、鑑賞者として、と位置付ける必要なんかどこにもない。
 まあ、あなたがこれを読んだ上で鑑賞者としての、オタクとしてのアイデンティティを主張して作品を見ようとするのであれば、申し訳ないがそれも表現だと思うので、表現者としてのあなたの鑑賞者性を私は尊重したいと思う。悔しくてたまらないけど。

 9月10日に開催したコラボ個展「3人しかいない!」のよかったことは、会場に鑑賞者が1人もいなかったことだ。そこにいる人全てが作品に影響を与えてしまう構造を作った。
 だけど「3人しかいない!」の最大の悪いところは、来てくれた人が半分以上知っている人だったこと。結局、私が心地よく居られる範疇の世界の話でしかなかったのだ。でも、私の作品が誰かに見られることでお互い影響し合い、完成していく作品なのだとしたら、私の作品はもっと多くの人にダイレクトにそして表現者同士として個人的に伝わる必要がある。作品を人に見られたい、とか、有名になりたい、とか、売れたい、とか、創作を仕事にして生きていきたい、なんて思ったことがないけれど、あの個展をやったことで、生まれて初めて、作品を見てもらうために、作品を完成させるためにそれらが必要なのだと理解した。

 今、新作の写真集「化け物だって愛がある」を制作している。もともと8月26日のイベントで最初に売る予定だった。しかし、内容の問題で連絡をした全ての印刷会社から印刷を断られてしまい、その日の販売は不可能となってしまった。現在、なんとか製本の目処がついて、どうやってそれを世の中に出すかを考えている。撮影者の辻くんと何度も会議を重ねながら。この写真集は、結果的に撮影・編集・入稿よりも、その後の方が、制作の中で比重が重い作品となったのだ。
 私はこの「化け物だって愛がある」の写真集が自分で企画・モデル・編集・プロデュースをした写真集として二冊目になる。一冊目の写真集は今年の1月に撮影をし、2月に販売を開始した廃墟×スク水×極寒の写真集「火星はもうすぐ死ぬ」だ。今まで色々な場所で色々な人に、知らない人にもたくさん売りまくった。「火星」がきっかけで私を知ってくれた人もいるだろう。「火星」にはその力があった。ポップで見るだけで楽しいし、伝わりやすい、わかりやすい。おもしろい。
 でも「化け物だって愛がある」は違う。わかりにくいし、伝わる人にしか伝わらない。ビジュアルだけが強すぎて、伝わってほしいことはもっと繊細なことなのに、勘違いされてわかりやすく解釈される危険性が大いにある。
 だから、伝えたいひとだけに、届くべき人だけに、より広く、より個人的に伝えられる方法を考えています。ただひとつ言えることは、この写真集は絶対に今、そして私が作る必然性がある作品だということです。だから今、まさに今、無力で無名な今の私でも、だからこそ、世の中に出す必要がある。必ず形にします。もう少しだけ待っていてください。

 百鬼夜行2022の後、遊びに来てくれた1人の男の子から、長い文章をもらった。そこに書かれていたのは、私のことのように見えて、彼自身の話だった。私がやったことを引き受けて、彼自身の興味や彼の人生のことを書いてくれた。私に向けて書いた手紙というより、日記のような、独り言のような、そういう文章。「僕はいつもそうだ」「悔しい」という言葉が印象的だった。彼は限りなく表現者だった。私があの場でやったことを、私は全く1ミリも満足していないけれど、彼にあの文章を書かせることができたことは心から嬉しい。私は、あなたのような人に作品を見て欲しい。あなたのような人と作品を作りたい。(今は文化的にそういうのがあるか知らないけれど)ボカロ曲の動画のコメント欄で無名の中学生が自分語りをしているような、そういう作品が作りたい。

 私は楽しいだけでいられない。まだ全然自分の痛みが現実の痛みと釣り合ってないの。だから、もっと醜くもがきます。見ててください。
 がんばります。

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