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悲しみは権利か?

君のこと、泣いていいんだ かなしみは権利ではなく感情だから

前略 あけまして早々、短歌を詠むことにハマったわたしなので、いきなりばん、と書きました。魂の一首です。
短歌は素敵ですね、31文字に込められた熱っぽさが、儚く歯切れよくしゅわっと消える感じがします。おとつい初めて歌集なるものを買ったのですが、自分の稼いだお金で買った本史上、多分いちばん文字数が少ない一冊でした。でも充足感は間違いなくあったので、結局数で価値は測れない、ということでしょうか。功利主義とは。
…と話が脱線したままいくらでも書いてしまいそうなので無理やり本題に戻します。

今日のnoteで取り上げる命題は「かなしみは権利か」であり、この命題について、わたしの思考の現在地は上の歌の通りです。以下、この歌を詠むまでに至った道中・論理を書き残しておきます。

他者の痛みを「わかりきる」ことは可能か?

そもそも、わたしは「わかる」という状態についてとても猜疑的です。果たして、人間は何かを「わかりきる」ことができるのでしょうか。

わたしは現在大学の研究会において、人間の知について学んでいます。
学ぶ中で、マイケル・ポランニーという方に出逢ったのですが。この方は、形式知と暗黙知、という概念の提唱者であります。形式知とは、明示的なもので、論理的な伝達・表現手段によって他者に伝達することが可能なものです(「ああ、これは〇〇さんの顔だ」など)。他方、暗黙知とは、特定状況に関する個人的な知識で、形式化(言語化、データ化)したり他人に伝えたりするのが難しいものです(なぜ特定の顔を見てOOさんだと判別できるのか、など)。(正確に要約できているかはわかりませんがだいたいこんな感じです)
つまり、わたしたちは、自分の有する知識について、その全てを明確にわかり、他者に説明することはできないのです。

自分のことですら難しいのに、況や、他者のことなど、いかにして「わかりきる」ことができましょうか(反語)。他者とわたしは違うからだを持っています。同じ世界に生きていたとしても、違う「なにか」を感覚し、違う解釈をします。そんな他者について、生まれてから今までの、その全てを細部に至るまでを再現して追体験したり、「いま、ここ」で現在進行形として生起している感覚を共有することは、不可能に等しいでしょう。

もし、目の前にいる他者が、ある出来事によって痛みを覚えていたとしたら。その出来事に至るまでの経緯を知ることは可能かもしれません。でも、痛み自体をわかりきることは、できないのだと思います。

かなしみを所有した気になる、という傲り

話は変わりますが。去年の夏、運営に参加している芸術団体MMMにおいて、佐々木樹さんという現代美術作家に出会いました。MMMは夏に3週間ほどの会期があります。その会期の出品に向けて、わたしは彼の作品制作の手伝いをしていました。
あの日々の記憶は今でも忘れられません。まとわりつく水蒸気の熱っぽさ。制作場所である古民家の畳のささくれ。朝6時、夜から始めた作業がようやくひと段落ついて、眠りに落ちる時の充足感。記憶とは、堆積とは、「らしさ」とは。手伝いとはいえど、その作品の文脈や佐々木さん自身の哲学について考え、脳みそを乏しいなりにフル活用して意見をぶつけ、議論を重ねるなかで作品を完成させていきました(佐々木さんの寛大さには頭が上がりません)。

その作品が、会期中のある日の夜、何者かによって破壊されました。

深夜、この事実を知った瞬間、わたしは頭が真っ白になり、心に穴が空いたようで、なぜだか体が小刻みに震えて、知らないうちに涙がぽろぽろこぼれました。声は出ませんでした。深くて、暗くて、静かな悲しみの海に沈んでいくような感覚でした。
でも、空が白み、朝がくるまで考えて、だんだんとこの事実がからだに馴染んでいくうちに、自分のことを客観視できるようになってきました。そして、こう思ったのです、「わたしが悲しむのは違うのではないか??」。
これは、佐々木さんの作品であって、わたしの作品ではない。わたしに、悲しむ権利は、あるのだろうか?と。
この問いが浮かんでから、途端に、それまで泣いていた自分がとても傲慢な奴であるかのように感じました。わたしは何をしているのだ?他人の体験を、あたかも自分の体験であるかのように捉えている。

怖かったのだと思います。人の痛みはわかり得ないはずなのに、あたかも体験を所有した気になって、自己陶酔に陥っているような気がして。自分は他者の痛みを「わかった気に」なっているのではないか。そんなの、あまりにも傲慢ではないのか。
そうやって考えたわたしは、その瞬間から、なるべく破壊について考えないようにしよう、記憶から消して、オートマチックに薄ら笑いを浮かべていようと、そう思うようになりました。追いかけるのはやめよう。「感じない」人間になろう。
他者の痛みはわかり得ない、それなのに自分が勝手に悲しむのは、お門違いであると。それならもういっそ、心から、感情を引き起こす原因を締め出してしまおう、と。

『i』との出会い

そんな折、この冬わたしが出会ったのは西加奈子さんの『i』という小説でした。

あらすじをざざっと。主人公の少女アイは、元々シリアの生まれですが、物心つく前に養子として引き取られます。アメリカ人の父と日本人の母の元での、裕福な生活。成長するにつれ、自分の努力とは関係なしに手に入れられた豊かさに、彼女はコンプレックスを覚えるようになります。そして、シリアをはじめとする世界の悲惨な実情を知るたびに、ある種の罪悪感に心を支配されるのです:わたしは、偶然生き残ってしまったのだ、また不幸を免れてしまった、と。
悲惨な状況にいる他者のために祈ることはしても、全ては日常にの飲みこまれていきます。結局彼女は、自分に注がれる豊かさを享受することをやめられないでいました。次第に、彼女の中で葛藤が立ち上がります。のうのうと生きている自分が、何も動かずに、何も傷付かずに、苦しい状況にある他者に心を寄せようとすること、胸を痛めることは自己満足なのではないかと。

ある折、彼女はこの葛藤を親友であるミナに打ち明けます。以下は、その時、ミナが毅然とした態度で放った言葉達です。

「その気持ちは恥じなくていいよ、恥じる必要なんてない。どうせ自分は被災者の気持ちがわからないんだって乱暴になるんじゃなくて、恥ずかしながらずっと胸を痛めていればいいんじゃないかな。」「誰かのことを思って苦しいのなら、どんなに自分が非力でも苦しむべきだと私は思う。その苦しみを、大切にすべきだって。」

わたしはこの一節を読んだ時、夏の、破壊のことを思い出しました。あのとき、「悲しむ権利がないから」として、何も感じないようにしていた自分。あれは、逃げであり、合理化された怠慢であったのかもしれないと、気づいたのです。
他者の痛みをわかりきることはできない、けれど、そこに寄り添おうとすること、わからないなりに自分も悲しむこと。これには、相当な覚悟が必要だと思います。そして同時に、「痛みをわかりきることができない、という痛み」を伴うものなのかもしれません。でも、だからと言ってそこから逃げてしまうことなく、自分も同じように悲しもうとするのは、傲慢さではなく、つよさなのだとおもうようになりました。

かなしみは、権利ではなく感情だから

『i』に巡り合い、考え方が大きく変わったわたしではありますが、それでも他者の痛みをおもい、言葉にして伝えたとき、「あんたなんかに何がわかるの」…そう言われるのではないかと思うと、猛烈に怖くなる気持ちは、残ったままでした。

そんな状態をひきずって、2020年が始まりました。

正月明けのある日、昼下がり、テレビを点けたら、スポーツの試合が放送されていました。その試合には、知っている方が関わっているチームが、出場していたのです。おっし何かの縁だ、これは応援するしかないぞという気持ちで、観ることにしました。
しかし、そのチームは、試合に負けてしまいました。
わたしはこのとき、なぜだかどうしようもなく悔しくて、悲しい気持ちに「なってしまいました」。と同時に、また違和感を覚えたのです。わたしは短い時間しか試合を観ていないし、その試合の舞台に立つまで選手達がどれだけ練習を積み重ねてきたか、その熱量を知らない。だから、悲しいという感情を抱くのはとてつもなく失礼なのではないか?と。
でも、ここで逃げて、感情を締め出すのは夏と同じ、何も変わっていないことになるなと考えました。そして、恐る恐る、その知っている方に、テキストメッセージで、自分の思いを伝えることにしたのです。

悲しむということ、悔しがるということが権利の概念なら、私にその権利は無いのかもしれません。(中略)ただ、何かに向かう人は美しいのだ、と、強くそう思いました。(以下略)

正直送信するときには手が震えました。
でも、返ってきたのは予想だにしない言葉でした。

悲しむ、悔しがるは、権利じゃなくて、感情だよ。

わたしは何かがぼろぼろと崩れていくような気持ちになりました。嗚呼そうなんだ、悲しみというのは、権利ではなく、感情なのだと。自分の感じたことを、否定しなくてもいい。権利なんかじゃない、当たり前に湧き上がってくる感情として、それを認めていいのだと。語弊を恐れずに述べるのなら、「赦し」をいただいたような感覚を覚えました。
ご自身のなかにも様々な気持ちが入り乱れている状態の中で、このようなメッセージを送ってくださったその方には、感謝しかありません。

結び

他者の痛みをわかりきることはできない、その明白な前提を忘れてはいけないとおもいます。それでも、他者を思ったときに自然と湧き上がってくる感情を、「わかりきることなどできないから」として閉め出してしまうのは、自己保身、逃げなのではないでしょうか。事の言葉にして他者に伝え、非力ながらも向き合い続けるつよさを、持っていたいです。

おまけ:関連する書籍一覧

木下龍也『つむじ風、ここにあります』

新年早々ノックアウトされ、買ってしまった歌集です。友人が勧めてくれた連歌集『今日は誰にも愛されたかった』で木下さんの存在を初めて知り、なんなんだこの人は!となり、気付いたら彼だけの歌集を手に取り買っていました。わたしの語彙力のなさを呪いますが、「繊細にやばい」です。本当に、「繊細にやばい」としか言いようがないです。確かめて欲しい。

西加奈子『i』

流れるように、瑞々しい話でした。アイ、という少女のコンプレックスには、わたし自身と重なるところがあり。わたしは小中高とキリスト教の学校に通っていましたが、時々「金銭的な豊かさ(しかも「先天的」な)に対する罪悪感」みたいなのに悩むことがあったので…。同じような背景を持つ人に是非手にとってもらいたい一冊です。

ご挨拶

最後までお読みいただきありがとうございました。稚拙で、人間的な弱さを感じる文章であったと思います。
ただ、そこに怖気付くことなく、もっとしなやかに生きるために。2020年は毎週月曜日にnoteを更新していく予定です。今後とも是非読んでやってくださいませ。それでは。

あなたに言葉の花束を差し上げたいです。 ちなみにしたの「いいね!」を押すと軽めの短歌が生成されるようにしました。全部で10種類。どれが出るかな。