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瞬間ごとに書き換わる物語

雲が 雲であることを 諦めたのなら 粒子の輪郭は だらしなく撓み 界面はもはや 曖昧となり そこかしこで 結合が生じ やがてひとまとまりの 流動体となり そのままずとんと 地上に落ちる
光は 乱反射がないので 迷いながらのろく 進むようになった

寒い朝が好きです。寒い朝、すんっと静かな空に浮かぶ、雲を見るのが好きです。
「雲が雲であることを諦めたら、空の様子はどうなってしまうのでしょう…。」ある日、家から最寄り駅までの道のりを歩いていたときに、そんな漠然とした問いが浮かんできました。想像してみたら、情景が心に象られたので、スマホを取り出しさくっと詩にしてみた次第です。かわいげに。
アリストテレス先輩曰く、芸術におけるミメーシスとは、単なる模倣・再現の域を超えて、現実をより美しく、よりよく提示するものである、と…。私の雲の詩は、私が感覚した雲のミメーシスたり得ていますでしょうか。

今回のnoteは、人生という物語、について書きたいと思います。「人生という物語」…言葉にするとだいぶキッチュですね。笑
過去から今までの記憶を、感覚した事象の積み重ねを、私(たち)はいかにして「物語」として再現し、理解するのか。そしてそうやって編み出された物語は、どのような形で私(たち)に影響を与えるのか。ということに関する一考察です。

過去は変わってゆく、ということ

「飛行機で読んでいた小説なんだけど。」
ペルー帰りの母親が、お土産より先に私に差し出したのは、一冊の本でした。青と黄色の、淡いのに鮮やかな本の表紙には『マチネの終わりに』という文字が。
ああ、それね!秋に映画化もされて、何名かの友人から「読んだ」という話を聞いてた私にとって、この小説は「なんだか最近話題の一冊」。ちょうどいい機会だったので、本を開き、著者・平野啓一郎のつむぎだす世界にどぷん、と浸ることにしました。

読めばわかるのですが、この小説においては、「未来によって、変わる過去」という主題が、全体を貫いています。象徴的なのは以下のセリフです。物語の冒頭、コンサートの打ち上げのシーンにて、主人公のクラシックギタリスト・蒔野はジャーナリストの女性・小峰に向かってこう言います:

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらいに繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

その後、二人は恋に落ち、時間の流れの中で想いを募らせていくのですが。実際にその過程で彼らは、(蒔野がいったように)何回も過去を自分の頭の中に反芻させ、その度に、記憶について異なる思いを抱くことになります。過去、起きたことそのものは何一つ変わらないけれど、その過去に相対する、彼自身/彼女自身の姿勢が変わってゆくのです。(説明のために詳しく書きたいところですがネタバレしてしまいそうなので抽象度高めにして終わっておきます)

星座は「空目」である

話は変わりますが。
1月の東京は、当たり前ですけど、寒いです。夜道を歩いていると、空気がひんやりと澄んでいるから、星がよく見えるなあと錯覚します。都会のくぐもった雑音の向こう側に、ちらちら輝く星を見つけられると、嬉しくなるものです。

生物学者・福岡伸一さんの著した『世界は分けてもわからない』を読んでいた際、北斗七星についての記述が目に留まりました。

そもそも七つの星は、同じ平面状にあったものでもなんでもない。宇宙に散らばる、全く異なった遠さの星々を、程々の視力を持つ私たち人間が、天空を仰いで勝手に繋いでみた、文字通りの空目でしかない。

「空目」というのは、「本当は全く偶然の結果なのに、そこにある特別なパターン(=関係性)を見出してしまうこと」を指します。人間は、長い進化の過程の中で、この「ありとあらゆる物事が存在する複雑な世界」から、「いくつかの物事を選定し」、それらに「関係性を見出す能力」を獲得してきました。なぜか。福岡さんは以下のように説明します。

私たちは、本当は無関係な事柄に、因果関係を付与しがちなのだ。なぜだろう。(中略)元々ランダムに推移する自然現象を無理にでも関連づけることが安心に繋がったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。

要するに私たちは、この世界を理解するために、「つなげたがり」になったのだと思います。

星座のように、記憶をつなげていく

『マチネの終わりに』を読んだ時、私はふっと福岡さんの話を思い出しました。そして、過去を、つまりは自分の今までの人生を理解しようとする時も、私たちは「星座を見出す」態度であるなあ、とかんがえたのです。

時間、という明確な秩序のもとで、私は生を歩んでいます。過去から現在まではピンと張った糸のように一直線につながっていて、決して撓むことはなく。どの事実も事実として、無表情に、均等に並んでいる…はずです。

しかし、私は、「過去」を選り好みします。たとえば、昨日の晩ご飯よりも、3ヶ月前に好きな人と食べたパスタの蟹クリームの方が、何倍も鮮明に思い出せます。
事実として、秩序立って並んでいるはずの過去は、明確に重み付けされ、さらには主観的な色や明るさ、温度を持った状態で、私の頭に残るのです。そうやって無自覚にデフォルメされた過去を、ここでは「記憶」と呼ぶことにいたしましょう。

ここで、星について、考えてみます。
私たちは、夜空を、地球上のある一点からしか観測することができません。そして、網膜に届いた光があれば、それを星だとして認めます。逆に、本当は宇宙のどこかで確実に輝いている星があったとしても、こちらが輝きを認知できなければ、最初からその星は無かったことになります。
宇宙に存在している星そのものを私たちの「過去」、そして観測者によってその存在を認められた星を「記憶」として考えてみたら。

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先の福岡さんの主張を思い返すのであれば、私たちは選び取った星にパターンを見出し、無自覚のうちに星座を見出します。同様に、私たちは自分が持つ記憶をつなげて、星座のように、一つのまとまった物語を見出そうとする存在なのだと思います。
物語は、「ある日、これが起きて」「その次にこれが起きて」「ただしかしこうなって」「最後はこうなりました」といったように、事象とそれを結ぶ因果関係に基づいて成り立っています。そして、それら結び付けられた事象を全体から見渡した時、「これはOOについての物語だ」と、認識することができるのです。
逸脱性の高い事象に出会った時、つまり自分にとって出来事が「わからない」と感じた時、それを理解するための手段として物語は機能する、と、J・ブルーナーは主張します。それまで膨大で収集のつかなかった過去の集積から、滑らかな一筋の物語を見出すことで、私たちは自分の人生を、「わかる」、いや、完全にわかることはできないけど「納得する」ことができるのではないでしょうか。

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無数に輝く星の中から、選り好みした星たちによって星座が形作られる。この瞬間、星の一つ一つは、「意味」を持ち始めることになります。「この星は、星座全体においてこういう役割を果たしている」「この星は、この星とこういう関係にある」。
同様に、人生の物語においても、それが定まった瞬間に、その記憶一つ一つに意味が与えられます。「この人との出会いが、今の私を作っている」「ここでこれがあったから、後々こういうことに繋がっていった」など。

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ただ、生は動的であり、新しい星は常に生成され続けています。夜空に、ある時パッと眩しく光り輝く星が現れたならば。その星を星座のなかに取り込まずにはいられないでしょう。ただ、取り込むとなると、星のそのつなぎ方を変えていかなくてはなりません。一本線を足しただけですむならまだしも、全体を劇的に、変えていかねばならぬときもあります。そうやって、星のつなぎ方、その全てが変わった時、わたしの目の前には、全く違う形をした星座が立ち現れることになる。
その時、物語、つまり自分の人生の捉え方は、大きくガラリと変わります。と同時に、その人生という物語において記憶一つ一つが持つ意味も、大きく変わるのです。

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もう一度、先の『マチネの終わりに』にて蒔野さんが述べた言葉を、そっと置いておきます。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える、過去は、それくらいに繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

瞬間ごとに書き換えられる物語

言うなれば人生とは、「星の出現」「新しい星座を描く」「星に意味を持たせる」ということの、スクラップアンドビルドの連続の中に在るのだと思います。毎日毎日、いや、毎瞬間毎瞬間、私たちは物語を書き換えるようにして生きている。 事実は変わらないけれど、意味は書き換えられる。

新しく、眩い一等星はいつ私たちの前に出現するかわかりません。今までつむぎ、理解し、ひいては誰かに向かって語った「ストーリー」も、もしかするとその星の出現によって、全く違うものになるかもしれない。

自分の記憶を確かめながら、その意味を更新し続ける。それが、生きるということなのだと、19歳の小娘はそう考えながら、今日も物語をつむいで参ります。

おまけ:関連する書籍一覧

平野啓一郎『マチネの終わりに』

個人的に、平野さんの、汁を限界まで染み込ませた高野豆腐みたいなスティルが好きです(称賛しています)。一文一文が濃くって、でも決してクドくない。滋味深い。ずっしりスティル。
小説自体は、それぞれの思いが錯綜して、複雑な編み目となって、一つの、絹のように滑らかで繊細な織物が完成する、その一歩手前で終わる、そんな感じでした。

福岡伸一『世界は分けてもわからない』

研究会の先生に教えていただいて巡り合った一冊です。装丁も形式も確実に新書なのですが、体感としてはミステリー小説でした。筆者の、なんの連関もなさそうな具体的経験の数々が、一冊を通して一つの主張へと繋がっていく…最後の章はヒイヒイいいながら読みました。伏線の回収が凄まじい。星座、のレトリックの出所です。

J・ブルーナー『意味の復権』

「フォークサイコロジー」という概念の説明要件として、人間が醸成する「意味」や「物語」、行為の基底に存在する「文化」などについて語られた本です。嗚呼危うい、正確にいうのであれば、そういう本だと解釈しています。というのも、脳みそが「二足歩行を初めたてレベル」であるわたしにとって、この本は少々難解でした。何いっとんねんゴルァ、みたいなことを心で呟きながら読み進めた、思い入れのある(?)一冊です。読んでみて、よければ一緒に議論して欲しい…。

ご挨拶

最後までお読みいただきありがとうございました。
偉大な皆様からの触発を受けて、私自身の思考を更新し続けること、さらにはそこから自らの論理を生み出していくことを、大切にして参りたいです。
それではまた来週。

あなたに言葉の花束を差し上げたいです。 ちなみにしたの「いいね!」を押すと軽めの短歌が生成されるようにしました。全部で10種類。どれが出るかな。