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uber existence論考

過ぎたる3月19日、クマ財団の第4期奨励学生による作品展の内覧会があり。

わたしは奨励生の一人である花形慎さんによって出展された作品・uber existenceに、「アクター」役として参加してきました。

uber existenceとは、端的にいうのであれば「存在代行」のことです。

Uberは空いている車をタクシーにしたり、暇な人を配達員にするという発想ですけど、そのコンセプトの行き過ぎた形として、人と会う用事や出席しなければいけない会議など、あらゆる場面で他人の身体を借りて行動できるという架空のサービスを考えました。by.花形さん

そして「アクター」とは、このサービスにおいて自らの身体を提供し、依頼者の指示通りに動く人のことをさします。
アクターに想定される具体的な業務内容の例はこちらの花形さんのnoteが参考になるかと。

この「アクター」の経験がかなり壮絶なものだったので、備忘録的な意味も込めて、経験を元にした論考をつらつら記したいと思います。

前提

私は普段、人間の創造性について身体/言葉という側面から考えてます。そして、所属している研究会の性質上、人工知能との相対化の上で人間のそうした営みを捉えることが多いです。
∴uber existenceをやってる時も「これは私が身体を有しているからこその反応だ」とか「この振る舞いは単なる指示遂行ではなく私の創造的推論を含むものだ」とか「人工知能にやらせてもこの判断はできないだろう」みたいな視点でいろいろグルグル考えていました。

形式

基本的に
・テーマ
・体験した具体的な事象
・その事象にまつわるキーワード(認知科学的な用語に寄ってはいますがなるべく説明できるよう頑張ります。)
・キーワードを用いて、事象を語る
を一つのセットとして、なんセットか書きます。では!!スターーーツ!!!

テーマ1:思考を続けてしまう自己

uber existenceの鍵は「自己の身体に他者の精神が入り込む」ことだと理解しています。作品に参加する前の私は、他者の精神が自己の身体に入り込むなんてのは極めてイレギュラーなことだからこそ、アクターをやるときはそういった他者の他者性に対して拒否なり違和感なりなんらかの反応が出そうだな、と思ってました。ただ、実際にやってみて、私の場合はそういった他者の他者性よりむしろ「他者になりきれない自己」つまりは**他者の精神に完全に征服されることなく思考を続けてしまう自己**に対してより強く反応しました。そして、uber existenceの行為は、純粋な「他者の指示遂行」のみでは不可能/あり得ず、私自身が思考し(てしま)うからこそ成り立つのだということを実感しました。以下、例を挙げながら考えていきます。

事象1-1:目的地に向かう道筋を立てる

・具体的な事象の内容
1階の展示を一通り観終わり、ギャル電さんの展示の前にいた私に依頼者さんから「ではそのまま2階に行ってください」という指示が出た。この時、ギャル電さんの展示から2階へと続く階段に向かうルートは2種類の選択肢があった。

2021-03-21 2.11のイメージ

 ▲ギャル電さん(4 池野)の展示と私(me)、階段にまでたどり着くための2種類の選択肢

私は様々なことを瞬時に検討した結果、上図におけるルート2(左側)を使って階段を登ることに決めた。

・キーワード
選択:現実的な環境においてどのように行為するのか、複数の選択肢からひとつを選び取ること
変数:環境において着眼された、対象のある一つの側面。(e.g.服には色、形、生地などの変数がある)
認識の枠組み(=フレーム):人が状況を認識/判断する時における、意識/思考が及ぶ変数の範囲のこと。(e.g.「ここから清澄白河までどうやって行こうか」→範囲内の変数:移動手段、移動時間、運賃 etc/ 範囲外の変数:messengerの通知の数、明日食べる晩ご飯のメニュー 、わたしの髪の毛の長さ etc)(c.f.「フレーム問題」:(現段階で)なんらかの目的に特化して作られた人工知能は認識の枠組みを柔軟に変化させることができない。e.g.碁をプレイするAIは火事を検知出来ない。)

・キーワードで事象を語る
この事象では、「2階に行く」という抽象的な意志あるいはものごとへの志向を有しているのは他者だが、その意志/志向を実現するための具体的選択(のための思考)をしているのは私、という状態が発生していた。そして私は、「2階に行く」ためには二つのルートがあること、そしてどちらのルートを選択すべきかの判断材料となる様々な変数を、瞬時に自らの認識の枠組みに入れ込んだ。その枠組みの中には多くの変数があったが、とくに重要な重みをもったのは「壁の圧迫感」という変数だった。ルート1を選択した場合、私はギャル電さんの展示と壁との間にできた道を通らなくてはならない。その壁には、別の作家による絵がびっしりと書かれていて、私はその絵から圧迫される感じを覚えていた。対して、ルート2の方は少し遠回りになってしまうが、圧はない。この「圧迫感」という身体感覚的な変数に基づいて、私は最短距離=合理的ではない、ルート2の方を選択するに至った。

事象1まとめ:アクターは、依頼者からの抽象的指示を実現するために、具体的行為を選択する(ために思考する)ことから逃れられない。そして、その選択にあたって、アクターの身体感覚は合理性以上に極めて重要な因子である。(と、今宿は思った)**

事象1-2:依頼者の発話を推論する

・ 事象の内容
①発話から依頼者の志向を推論し、行為する
依頼者・市原さんのアクターとして1階の展示場所を「とりあえず一周してください」と言われた私。ゆっくりと練り歩くように展示を見て行った。ある作品の前を通りかかった時、彼女が「あーこれこれ!」とおっしゃった。私はその瞬間に(止まってください、と言われていないのにもかかわらず)作品の前で足を止めた。

②発話を指示と独り言と会話とに振り分け、それぞれに適切な反応を示す
依頼者の一人である市原さんは、とにかくよく喋る方だった。常になんらかの声を発していらした(体感)。当時の市原さんの発話内容を大別すると、1.指示(e.g.「あ、ちょっと自転車漕いでみてください」)
2.独り言(e.g.「わーこれはすごいな大きいですね」)
3.現地にいる人との会話(e.g.「はながたさん最近どうですか?」)
の三つとなる。私は彼女の声色や状況の文脈から、彼女が今上記した三つのうちのどの発話を行なっているのか瞬時に判断し、それぞれについて適切に振舞うことができた。

・キーワード
認識のスキーマ:あるひとつの物事に関連する複数の物事からなる、集合的な知識のこと。(e.g.「レストランスキーマ」:ナイフ、ウェイター、椅子、食材、デート、観光 etc)

・キーワードで事象を語る
①について
人工知能であれば「あーこれこれ!」という内容の発話は「止まれ」の意味を直接含まないのでコマンドとして処理されない(=単なるノイズになる)だろう。しかし、私は人間であり、私の過去の経験から培われた「期待していたものを見つけた時の人の反応」スキーマには「『あーこれこれ』という発話」があった(暗黙的に)。さらに、鑑賞中であるという文脈や、彼女がこの展覧会の出品者の多くと顔見知りだという事実などを複数認識し統合した結果、彼女の「あーこれこれ」という発話は「この作品を見ることを期待していたので、是非じっくり見てみたい」的な志向を持つものであると推論するに至り、直接的な指示がなかったが止まることができた。

②について
こちらも同様、私は過去の経験から「指示スキーマ( e.g.語尾が「XXしてください」)」「独り言スキーマ(e.g.呟く程度の小さな声量、感嘆符が多い)」「会話(=返答を欲している)スキーマ(e.g.疑問形で終わる)」をそれぞれリッチに有している。状況/依頼者の声色/文法構造などを総合的に鑑みて、依頼者の発言がどのスキーマに属するのか瞬時に判別することができる。∴振り分けが容易にできた。
ちょっと説明が難しくて↑だと上手に伝わるかわからないので、プチ思考実験として、AIだとできなさそうだけど人間ならできそうな依頼者の発話振り分けの例
・発話1:(遠くに作品があって)市原さん「もうちょっと近づいてみてください」
・発話2:(はながたさんが少し遠くにいて)市原さん「もうちょっと近づいてくれる?」
どちらも発言内容そのものには大差がない。市原さんはどうやら「距離を縮めたい」らしい。AIだったらこれをどれも同じコマンドとして捉え、接近を始めるだろう。ただ、人間は他者の発話を聞く時、内容そのものだけではなくて状況や語尾にも意識を向けている。発話1において、私は私と作品の位置関係、「作品を鑑賞したがっている」という依頼者の文脈などを鑑みて、これは私への指示であると解釈し、作品に近づく行動をとるだろう。対して、発話2においては「近づいてくれる?」という親しさのこもった語尾や、会話が始まりそうな様子から、「これは花形さんに話しかけているのだ」と判断することができ、特に私は何も行動しない。

事象2まとめ:アクターである人間は、依頼者の発話行為について高い推論能力を持っている。そしてその推論能力は、過去にその人間が培った様々なスキーマに依拠している。∴ 私は「今宿未悠」として生きてきた過去(と、そこで培われた豊かなスキーマ)を切断して「純粋なkudashiahというアクター」として振舞うことはできない。(と、今宿は思った)**

テーマ1考察
テーマ1では、アクターとして他者に精神を完全に制圧されることなく思考を続けてしまう自己存在について考察した。このように、アクターが人間である限り、その人の思考/過去の経験は完全に制圧されることなく残り続ける。
ここから、**uber existenceの依頼者とアクターの関係を、「操作する主体」と「操作される客体」という能動と受動に切り離されたピュアな主客図式に代入することは不可能だ**と言えるのではないか、と考えた。操作する主体である依頼者だって、操作される客体の思考に時には影響をうけ、時に驚かされる。全てが依頼者の予想通りに進むとは限らない。
ちょっと長くなりそうだから割愛するけど、『責任の生成 中動態と当事者研究』に書いてあるアガンベン**「使用」**の話にも繋がる気がする。たとえば私がペンを使う時、私はペンを支配しているように見えて、ペンのアフォーダンスに自らを沿わせ動きを変化させなくてはならない、みたいな話。uber existenceに当てはめて考えると、依頼者はアクターを使用している。**依頼者がアクターを使う時、依頼者はアクターを支配しているわけではなく、アクターの動きに応じて自らの思考や知覚対象を変化させていくのだ**と言えるのではないだろうか。

テーマ2:責任の所在

一つの行為に複数の主体が絡んでくる場合、その行為の責任をどの主体に帰属させるのか、ということが問題になると思います。ここではuber existence中の私の行為について、私が責任を感じ文字通りresponseした瞬間と、逆に責任を依頼者に帰属させresponseを放棄した瞬間をそれぞれ挙げます。例えばもし、任務遂行中にアクターが事故を起こしてしまったら、その責任は誰がとるのだろう(同じことが車の自動運転の問題で議論されていますね)などといったことも考えながら。

事象2-1:自らの行為を現地の人に謝罪する

・事象の内容
依頼者の指示に応じて1階から2階へと繋がる階段に足をかけた私。この階段は急なので足元をみながら一段一段ゆっくり登った。登り切ったとき、2階の階段のそばで私が登りきるのを待ってくれてる人がいたことに気づいた(階段は狭いので、すれ違うことはできない。∴誰かが階段を使ってたら、待つ必要がある)。私は階段を上り切った後、自然とその人に向かって**「お待たせしてすみません」という謝罪の意味を込めて小さく会釈**した。

・キーワード
response-abilityとしての責任:行為の原因は自らに因るものであるとして、行為の結果生じたものごとに対して反応すること
引責:責任を引き受けること

・キーワードで事象を語る
「階段を登って」というのは依頼者の指示であり、私はそれをただ遂行した。ただ、前に述べたように、「どのように指示を達成するか」に関しては私に具体的行為選択の余地がある。階段に足をかけるタイミングや速度などは、身体感覚に根差して私が決定できる。
今回の例となった行為を能動-受動に振り分けてみると、私は「依頼者の指示により階段を登らされている(受動態)」と同時に、「自分の選択として階段をゆっくり登っている(能動態)」こととなる。そして今回の場合、私は自らの行為うち、「階段をゆっくり登っている(能動態)」ことの方に着眼し引責したからこそ、結果として(おのずから)謝罪のための会釈をするに至った。

事象2-2:現地の人だかりを堂々とかき分けてすすむ

・事象の内容
「とりあえず3階をぐるっとまわって下さい」という依頼者の指示に従い、3階の諸々の作品を鑑賞していた今宿。歩いていると、何やら人だかりができているところがあった。薗部さんの展示のデモンストレーションが行われているようだった。私は立ち止まってデモンストレーションに参加すべきかと考えたが、依頼者から特に指示はなかった。止まらなくていいのか、なんてことを考えながら何も考えずに歩みを続けたら、結果的に堂々と人だかりをかきわけて(あるいは、横断するようにして・もっと過激な言い方をすると多分少々デモンストレーションを邪魔しながら)移動することになった。

画像2

           ▲私の移動経路と他者の位置関係 

・キーワード
免責:責任を退けること

・キーワードで事象を語る
事象2-1同様、この私の行為を能動-受動に振り分けて考えてみると、私は「依頼者の指示により3会の展示をみて回らされている(受動態)」と同時に「自分の選択として人をかき分けて進んでいる(能動態)」となる。ただ、事象2-1に反して、この時の私のマインドは前者の受動態により着眼していたのだと思う。過激に言うなれば、「指示されてるんだから仕方ないだろう」状態(今考えると強気すぎ)。∴ 「人をかき分けてすすむ」ことからみずからを免責し、堂々とできた。そして後からその時の状況を思い出して、反省した。普通に遠回りすればよかった。
そして、ここからは論が飛躍するしめっちゃ極論だけれど、こういう考え方が戦争につながる気がする(なんでも戦争に結びつけて考えてしまう。平和な世界を望みます)。仏教の教えで「自分は正しいことをしているのだと信じる時、人は一番残酷になれる」という言葉があるけれど、まさにそう。「これは正しいから」「これは人に言われたことだから」となんらかの外的理由に因って自分で自分のことを免責した時、人はどんな残酷なことだってできるようになってしまうのかもしれない。狂気の萌芽を自分の中に見つけた。極論だけど。

テーマ2考察
テーマ2では、複数の主体がからむuber existenceという行為を、責任という概念から考察した。uber existenceはそのシステムゆえに、一つの行為に複数の主体が関わっていることが顕在化しているが、しかしながら私たちの一挙一動全ての行為もこれと同じように、(たとえ無自覚であったとしても)複数の主体からの影響上に成り立っている。自らの行為に対して私たちが責任を感じる時とそうでない時があるのはなぜなのか。このuber existenceの他の事例も複数集めて見れば、なんらかの傾向性を掴むことができるかもしれない。

テーマ3:現地の人からの「見え」

力がなくなってきたので簡易的に。テーマ3は現地の人からアクターという存在がどう見えていたのだろうということを考察したいと思いました。以後、急に言葉がくちゃくちゃします。

事象3-1:秘密の話ができるか

例えば、依頼者と現地の人との間で何か隠し持っている秘密があった時に、その秘密についてのお話をuber existenceを介してできるんだろうか、という問い。話が盛り上がって秘密を話そうとして「あ、これは今話しちゃあかんぞ」ってなった時、それまで「二人」の会話だったのが急に「三人」の会話になる感じがします。「あ、これ今、第三者に聞かれてる。」ってなる。からだだけ、と思って接していたアクターが、急に精神を持った人間に見えてくる、みたいな。伝わるかな。

事象3-2:会話の目線-カメラか、スピーカーか、私の目か

依頼人の方が現地の人に話しかける瞬間に多く立ち会ったんですが、現地の人それぞれの会話時の目線が面白いなと思ってました。ある方は音が聞こえてくるマスクの部分を見ていました。ある方は帽子についたカメラを見ていました。そして時々レアケース、私と目が合うことがあるんですね。不思議ですね。

目線って、「ここに向かって話したら一番その人に届く」っていう話者の考えの現れだと思っていて、だから言い方を変えれば、その人にとって依頼者の魂がどこに宿っているのかという価値観次第で、見る場所が変わるんだと思います。そういう意味で、目線に注目するのは楽しかったです。

フェードアウト的まとめ

テーマ、立てようと思えばあと5こくらい立つと思うしめちゃくちゃリッチな事象がたくさんあるuber existenceなので無限に考えられる気がしてしまいます…本当に人間の知性、創造的な営みについて考えるにあたって示唆に富みまくる実践だと思いました。実践といえば、哲学者中村雄二郎が「実践とは、各人が身をもってする決断と選択とを通して,隠された現実の諸相を引き出すことなのである」(『臨床の知とはなにか』)と言ってます、まさしくuber existenceは実践ですね。

ただ、あまりにも長くなりそうなので、書く/読むのにかかる時間と得られる情報の経済性を鑑みて、ここでは触れないでおきます。

まあ本当に面白い経験だったので、身体/精神、意志と責任など考えている人、機会があればぜひ体験してみて欲しいです。依頼者として参加しても、また違った体験となるかも。

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