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自由意志は無いという信仰


まずはそもそも

自由意志って何だろう?

これを考えるにはまず、「自由」とは何なのかを考えなくてはいけない。

自由とは、これまた抽象的な概念である。

そもそも日本語の「自由」には意味が二つあり、それを曖昧に我々は使い分けている。

1:何にも囚われていない状態の「自由」 freedom, liberty, ショーシャンクで主人公が雨の中噛み締めたアレ。

2:「おばあちゃんは体が不自由で腕が動かせない」という時の(不)自由

ここでの「自由」はどちらも包摂している気がするが、頑張って自由意志を定義づけるなら、「他からの強制・支配・拘束を一切受けずに、自発的に生まれる意思」だろうか。

つまり、

  • 何の原因も持たず

  • 何ものにも規定されず

  • 自分の中で自然発生する

ということである。

そんな事ありえるのだろうか(反語)

今朝テレビでカレー特集をやっていたから昼にカレーを食べた場合、その「意思による選択」には明らかに原因がある。

今これを読む人がこの「自由意志」の定義に当てはまる「何か」を考えつこうとした時、それはこの文章からの働きかけを受けての試みであるが故に「自由」とは言えない。(煽)

我々は「社会的生き物」として種々の関係性の中で、常にモノとヒトに囲まれて生きている。更に、我々は時間の中でも存在していて、常に過去を背負って生きている。その意味においてなんの理由も背景も持たずに意思を持つことは、我々には不可能なのである。

つまり、なんの理由も持たない意思を持てるほど人間は孤立していないし、孤立できないのだ。

※このnoteで扱う「自由意志」はこれまで記述した通り狭義的かつ厳密なものなので、自由意志を「人にあれこれ言われないで自分で決める力」程度に解釈すればその存在は十分に主張可能である。

話は変わるが

人には信仰が必要である。

「信仰」と言ってしまうと仰々しいかもしれないが、ここでは自らのアイデンティティと価値判断の拠り所という意味で理解していただきたい。

少し前までは、

  • お金を稼ぐ

  • いい大学に行く

  • 大企業に就く

  • 幸せな家庭を築く

などの分かり易いものが社会一般的な「価値」であり、人はそれを信仰して目指していれば、ただそれだけで良かった。ある意味、価値の盲信が通用したのである。

しかし、「価値の多義化」が人を自由にすると同時に、人を迷わせることになった

お金を稼ぐだけが幸せとは限らないかもしれない。
いい大学に行って大企業に行けばいいとも限らないらしい。

そうした社会的雰囲気に人はうろたえた。

自分が見つけた、自分だけの「豊かさ」を求める人が出てくる。そこには大学も企業も家族も関わらないカタチで。

逆に、拝金主義に一層なびく人間も出てくる。コスパ・タイパ・効率を重視し、費用に対して即時的かつ経済的な効果のみを「価値」とするカタチで。

こうして、人は社会全体で共通した分かり易い信仰先を無くした。

推し活の流行はその「アイデンティティの拠り所・表現手段」の必要性の表象としても捉えられる。

自分の人生において「価値」とは何なのか。
何を「意義」として目指すのか。
何のために生きているのか。

こうした正解の無いテーマをそれぞれが考えなくてはいけないという、自由で面倒な時代がいつからか始まったのである。

そんな中で

僕が出会った「信仰先」が、さっきまでだらだら書いていた「自由意志否定論(不自由論)」である。

高校生の時たまたま読んだ新書でこの思想に出会い、衝撃を受けた。それまでの人生で一番納得したと同時に、感化された。(この「一番」は大学でのフェミニズムとの出会いで容易に更新されるが)

様々な手段で自由意志の存在を否定し、人間が置かれた不自由さをしかと認識した上で「自由」を目指すこの本に

いや、その通りじゃん。
そうなんじゃん。

高3の僕

と高校生の時になり、そこからはこの考え方を必死にディグった。

お気に入りは、國分巧一朗が薄暗いカフェで自由について話す動画だった。

そして更にこの思想に拍車をかけたのが、濱口竜介監督の『偶然と想像』という作品であった。

この作品との出会いが一層、「自由意志の存在を信じること」よりも「偶然に期待すること」を魅力的にさせた。

「自分の人生は自分のモノ!」という一見明白で現代において誰もが認めているテーゼもこの映画を観ると少し疑問視せざるを得ない

しかしそれは何ら悪いことではなく、むしろ生き方の幅を広げるものなのではないか

たまには今までの自分の選択に全てを帰して現状への全ての責任を自らに課すのでは無く、それこそ「偶然」に身を委ねるのもありかもしれない

つまりは「偶然」に期待するのだ

それは日常的に選択を数多く迫られる我々の一種の「逃げ道」になってくれるのかも……(?)

そんな僅かな期待をこの映画は与えてくれた

2021年12月29日に書いた「偶然と想像」レビューの一部

こうして、思春期の大部分を「不自由論」に浸かって過ごして出来上がったのが今の僕である。

周りと過去に全ての決定・行為が形作られ、そこに介入することは不可能であるという「流される」人間観は、僕のアイデンティティや価値基準に大きく影響している。

その意味で、この不自由論は僕の「信仰」となった。

それからというもの

僕の人生は楽なもんだった。

もちろん、ミクロな視点では様々な状況・場面において努力したり辛いこともあった。

しかし、その結果がポジティブでもネガティブでも常にこの「不自由論」が包みこんでくれるのは、大変便利であった。

ポジティブなことがあっても、その背景にある無数の潜在的要因に目を向けることが出来た。おかげで、すべてを「自分の力のおかげ」と誤認させ、根底にある社会的・経済的特権を不可視化する能力主義のワナにはまらずに済んでいる。(多分)

逆に、ネガティブなことがあっても不自由論さえあれば誰しもが免責される。

しょうがないねの一言と共に、「流されて生きる存在」としての人間像を召喚すればいいのだから。

人間の行為は全て、過去と周りからの影響によって構成されているのであって、そこに本人は介入し得ないのだから、どうしようもない。

これは自己肯定の過程において大いに有効な手段であることは間違いない。

結局のところ自分は流されている存在なのだから、自分に出来ない事があった時や、自分を自分で認められなくなった時でも、その「ダメ」な自分をそのまんま受け入れる十分な根拠として成り立つ。

これは行き過ぎるとかなり乱暴な理論応用になるが、僕に不自由論に基づく自己肯定の傾向が付いてしまったのは事実である。(良くないかもね)

更に、この不自由論が持つ論理の中で僕にとって最も重要なものは「人間の無目的性」であった。

人間に自由意志がなく、流されているだけなのであれば、その流れ着く先を意識することは何の意味も持たない。そして流されていることそれ自体にも意味が無いのである。

これまでの表現に沿えば、「信仰するモノなんてない」という信仰である。

こうした姿勢は「生きる」という行為が課してくる、様々な肩の重荷を軽くしてくれた。

要は、自分は流されてるだけなんだから、人生に対しても少し肩の力を抜いてみよ〜と思えたという事である。

雰囲気はこれ

でもだからと言って

ニヒってた訳じゃない (ニヒる:ニヒリズムに陥ってあらゆる全てを放棄すること)

人生の目標を持たない・最終地点に思いを馳せない、という意味で人生に消極的になるのであれば、別の面で積極的にならなければいけない、という意識が僕になぜかあった。

しかしそれは不自由論と矛盾しない形での積極性・能動性でなければいけない。そう考えて出た結論は「積極的に流されに行く」ことであった。

実際に自分が面白そうと思ったこと、なんとなく心が動くもの、やってみたいなと思ったら全力でそれに従うように生きた。思いつきと好奇心でのみどこかに行って、誰かに会って、何かを始めてきた。

「生」それ自体に本質的かつ究極的な意味がないからこそ、なんにでも興味本位・やりたい事に自身を突っ込むことが出来る。(だからこそ飽きと諦めが早いのは少し良くないかもだけど)

飛び込んだ結果、どこに到達しなくても何ら問題ないという意味において、数年後の目指すゴールから目的合理的に考えて今の選択を行う「逆算ベース」な生き方とは少し違う魅力がここには詰まっていると思う。

しかしながらそこで

これまで何でも解決できたはずの不自由論が通用しない問題が出てきた

大学後の進路である。

進学しようかしら?それとも働いてみちゃう??

もっともっと学びたい。自分がこれまで培ったものを更なる学問の世界で使ってみたい。という心の底からの憧れと衝動がある。

と同時に、自分が変えたい社会のある一部分に、仕事として関われたらそんな素敵なことは無いだろうという、自己実現との関連でのきらめきもある。

どちらも同程度に魅力的で、ワクワクするし、面倒くさい

こりゃあ困った。

今通う大学に関しては、高校の先生に進められたその瞬間から自分がそこに入学することは決まっていたような変な感覚で一年間受験生をしてたから、進路選択に関して悩むことは殆ど無かった。

しかし今度ばかりはそうはいかない。

このまま流されることをしてても多分、進路の決断は出来ない。
ただ何となく卒業しちゃう・・・気がする。

今悩んだ結果としていつかは出るであろう結論それ自体に関しては、自分の過去や周り環境によって作り上げられたものだから、自由意志によるものでは無いんだけど。

でもそれは、結論が出るそれまでの時間(つまり今)を何も考えずに生きていていいことを意味しない。

そう考えると、このnoteの中でもこれまでの人生においても散々自由意思を否定してきたくせに、自分が今いる「悩む」という段階には自由が存在する気がしてきた。

「今」と「決断」と「未来」との間の余白としての「自由」というか、何というか。

えーわかんない

こんなに長くだらだら色んなこと書いてきて、最終的には「分かんない」でこのnoteが終わりそうである。

多分、僕が今問われているのは以下の二つの選択肢なのだろう。

  • 社会的要請・圧力を気にせずこれまで通りの「不自由論」を人生観に保ち続ける。この場合、先のことは気にせずこれまで通り能動的に「流されに行く」ことを続け、その結果自分がどこに行くのかを俯瞰して楽しむ。

  • 今漠然とある「え、このままでいけんの?」という声に従って不自由論の信仰をやめ、自分の「ゴール」を決めてそこにどうしたらたどり着けるのかを考える。もう21歳なんだから。

多分これはトレードオフな二択では無いし、不可逆なものでも無いんだろうけど、どうしても身構えてしまう。

今すぐ出る結論ではきっとないが、このnoteを書くことを通して自分が何を考えるべきなのかは明確になった。

でも、今後僕が不自由論を捨てて能動的な主体としての人間像を採用することになろうが、これまで通り、流される不思議さとわくわくに身を任せて生きることになろうが、「自分はどう生きたいのか」という問いへの答えだけは確かに決まっている。

僕は「自分はどう生きたいのか」を常に考えながら生きていたい。

それだけが今のところ明確にあるだけで、21年生きたくせに他はまだ何にも決まっていない。

その「決まっていなさ」を楽しめる時もあれば、逃げ出して大きな何かに強制的に決めて欲しくなる時もある。

やはり僕は「人間」に向いてないのかもしれない。

猫か、ビーバーか、アライグマに生まれたかったかも。


この迷走をいつか懐かしめることを期待して
5/16~6/9
Miniguchi

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