夏休みの始まり
夏休みがようやっと始まった
後回しにし続けたレポートを徹夜で無理やり終わらせ、春学期をかけて机の上に限界まで積み上げたプリント・本・ノート諸々を少しづつ解きほぐしていく。
身の回りの整地も済んだし、パソコン以外何も乗っていない綺麗なこの机で、この一週間書きたいと思っていたけど忙しくて書けなかった事を「そこはかとなく書きつく」る。
大根おろしと男性性
これは約一週間前に何か書こうとしてタイトルだけ書いてたやつだ。
内容は思いだせない笑
木の上の僕ら
同上
美と死
どんな時に最も「美」を感じるだろうか?
素晴らしい世界観を持つ映画を観た時?
感動的な物語と出会った時?
あの絵画と直接対峙した時?
ピンクと青とオレンジが淡く混ざり合う夕方の空を見上げた時?
ごくごくありふれた「日常」の希少性とかけがえの無さを自覚した時?
色々あるとは思うが、僕の中で今のところ最も「美しい」と感じるものは高校一年の時に留学していたイタリアで出会った、"La ballata dell'amore cieco"という歌である。
出会った当時(5年前?)に僕が訳したものを下に貼る。
noteの仕様だと画面から外れても音声だけは聴こえ続けるので、お時間ある人はぜひ歌詞と共に一回聴いてみて欲しい。イタリア語はほぼローマ字読みなので何となくでも追うことはできるはず。(訳はもちろん稚拙であるので、あくまで「雰囲気」だけ…)
「美しい」
初めてこの歌に出会い歌詞を理解した時、単純にこの言葉しか脳みそには浮かんで来なかった。
どう説明すればいいのかは分からない。
ただただ、「美しい」としか言えない。
水を含ませたスポンジをギュッと握った時みたいに、心から「美」に反応する気持ちがジュワジュワっと滲み出てくる。
当時は「あ~これが美か~」と直感的に感じるだけで、それ以上深く考えることはしなかった。
しかし今大学生になって今一度これについて考えてみると、そこには「死」の在り方が関係しているのだと思うようになった。
「この歌の男のように死にたい」
心の底からそう思う。
自分では無い何か(誰か)の為に死ぬことがもし出来たなら、それは本当に幸運で、美しいことだと思う。
歌において「男」は、自分に何の感情も無い女の為に自らの命を絶った大まぬけかもしれない。しかし男にそんなこと関係ない。
「自分の愛する人の願いを叶える」という手段でその愛を証明し、その証明をもって人生を閉じたのだから。
そんな盲信的な生き様と死に様に僕は憧れる。
周りの目とかどうでも良くて、相手との互酬性の不成立すらも関係ない程の、究極の自己満ともいえるような形で愛を表現する。
そんな対象にいつか出会えることを願って…
もしくは既に出会っているものにそれを見出せることを祈って…
というかそもそも自分にそんな精神的能力があることを淡く信じて…
それはそうと、夏休み
楽しみだな~
色んな予定が雨後の筍のごとく、づんづんカレンダーの上に生えて来て超ワクワクする。
なんなら実際に遊ぶよりもワクワク度で言ったら今の方が高いかも。
それは言い過ぎか。
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