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去り際を決められなかった過去

よく、今の価値観と当時の価値観は違うから。という話がある。

セクハラ・パワハラもそうだし、体罰の良し悪しもそうだ。

昔、舞台をやっていたとき、台本上でキスをする、というシーンがあった。正直嬉しいシーンではなかった。特に稽古のときに本当にするかしないかという問題がある。しかも舞台は稽古期間も長いし、同じシーンを何度も稽古する。

わたしはリアリズムを考えるならほほにキスされることを許したほうがいいと考え、相手役にもしてもいいよと言ってはいたが、正直本当にそれがリアリズムなのかという定義から疑問だった。

ある日同性の劇団仲間に
「本当は疑問だし、毎度されるのはつらい」
というと
「でもこっちは見慣れちゃってるから気にしてないよ」
という答えが返ってきた。

わたしは言いしれない不安のような、孤独感を感じて、黙ってしまった。

自分がキスされていることを見慣れられてしまうこと。そのことが励ましになると考えていたらしい友人の感覚。

違和感を言語化できず泣きそうになった記憶がある。

最近、アメリカハリウッド発祥で、性的なシーンをコーディネートするという職業があるとなにかのニュースで読んだ。

それは俳優同士に性的なシーンの進行を丸投げせず、あくまでも演技であることを前提に合意しながら、話し合いを進めるコーディネーターだ。

それを日本の女性の俳優が導入して映画を撮影することにしたという話だったと思う。

やっとここまで来てわたしのあのときの違和感は、わたしだけのものではなかったと実感して救われた。

同じように胸に塊に残っているのが、ビンタのシーンだ。

親が重大局面で子どもに言うことを聞かせるためにほほをうつ。わたしは母親だったが、当初から
「わたしは子どもの頃父親に平手打ちをされたことが心の傷になっている。同じことを舞台でやりたくないしシーンとしても平手打ちが最善か疑問だ」
といったが、受け入れられなかった。

でも私はあのときやはり平手打ちを拒否し続けるべきだったと今は思う。

一番わたしにとって痛手だったのは、父の名誉を傷つけてしまったことだ。劇団内で「父親が暴力的だった」ということが記憶に残ってしまい、後に劇団を辞める揉め事になったとき引き合いに出された。

わたしはもし過去に帰れるならば、平手打ちシーンを強要された時点で、辞めていいんだと伝えたい。それをいいシーンだと演出してしまうことは、仮に命がかかった選択が迫られた場合でも、間違いだと。

確かに当時ガンダム(最初の)で、ブライトさんにアムロがほほを打たれ
「父さんにさえぶたれたことがない」
と反抗するシーンでは多くの少年少女が
「え。一回も打たれたことがないの。甘やかされて育ったんだね」
と、普通に思っていたと思う。

だからわたしは確かに傷ついたけど、わたしの父が取り立てて極悪非道だったわけではない。正しくはなかったが。

価値観は変わる。

そして過去の過ちも遡って罰することはできない。

しかし時代の変わり目にいるときは、特に、古い方の価値観に引きずられることがないか、注意をして間違いはないだろう。

あのシーンは叩くべきではなかった。

ハグをするのでも、感情をこらえて説得するでもいい。自分のほほを叩いたほうがましだったかもしれない。

シーンとして感動的な提案ができなかったことが説得力を欠いたの悔やまれる。

傷ついたということは消えない。価値観が変わる前でもあとでも、傷ついた側の心に寄り添い観客や読み手に感情が動く問いかけをしていくことが大切だと今は思っている。

何より相手役の方に謝りたい。

いいよと言ってくれていたが、するべきではなかった。

自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。