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何を学ぶための病気だったのか

今「神さまとのおしゃべり」という本を オーディブルで読んでいます。

「Amazonの聴く読書」です。

今月のサービス書は さとうみつろう作「神さまとのおしゃべり」 です。

わたしは今も「史的唯物論」の立場で ものを考えることにしていますが この書はグイグイと 「観念論」に引き戻してきます。

物質もすべて「思うからある」という立ち位置で 「病気すらあなたが願うからなった」 と言い切る内容なので すごく 腹が立ちます。 (笑)

かなり我慢して聞いています。 (笑)

しかしどうでしょう。 仮にあなたの親友が重大な病気になったとき あなたは 「あなたが願うから病気になったね」 とは決して言わないでしょう。

とはいえ言葉にすれば
「今まで頑張って来たからちょっと休んでいいよ。 早く元気になってって神様がくれた休み時間だよ」
とは言うかもしれません。

この書では 「病気になった人は休みたいと願ったからなった」 という書き方をしているので いわゆる「嘘も方便」とか「優しい嘘」を 神の所業(その人の願いを叶えた)として 括っているかと思います。

一方で物質を根源に考えたとき 病気はまさに物質的現象で その現象をありのままそうだと受け入れる作業が 必要になります。

精神世界を根源に据える 観念論に立っても 物質世界を根源に据える 唯物論に立っても 現代において受けられる限り医療を受けること それが人としての尊厳を守られることとなります。

最近では高齢化や病気の向き合い方として 本当に必要最小限だけの 緩和ケアを選ぶなどの道もありますが 何らかの形で
「本人が病気と対峙する」 (向き合う)
ということが必要となります。

わたしは過去に うつ病もしくは抑うつ神経症もしくはパニック障害で かなり長期間ひきこもった生活をしていました。

主治医の方針で病名が与えられなかった。

その時一番やるせなかったのは めまいや心臓が苦しくなる症状が出たとわたしは日頃は いっそ消えたいとか終わってしまいたいと思っている癖に その症状が出ると 怖くて怖くて仕方ないのです。

自分でも自覚があって 死にたいと生きたいの矛盾を 卑しさみたいに感じて さらに自己嫌悪に陥りました。

でもわたしは それこそ根源的にはわかっていたのです。 わたしは 結局は 生きたいのだと。

そして今思うとその症状たちは わたしに 生きたいという自覚を促すために わたしを揺さぶりに来ていたのです。

頭や胸をわしづかみにして 飽きもせず凝りもせず粘り強く。

もう20年くらいたってようやくわかりました。

わたしは病気の間も ボランティアや演劇活動は完全には休んでいず 周囲に病気への理解を求めなければいけなかったので そのときは わたしの症状は人への迷惑を最小限にするため 理解を求めなければならない 厄介な存在でした。

でも今は わたしがわたしに どんなに自己嫌悪に陥っても 死ぬよりいいでしょう 生きて乗り越えて 自分が好きになりたいでしょう。

それがあなたの根源の願いでしょうと 説いてくれたのだとわかりました。

言葉遣いもちょっと荒く 個性的すぎる神様が登場する
「神さまとのおしゃべり」
を聞きながら 自分の人生を振り返って はっとした日曜日です。

学びの答えは すぐ出るとは限りません。 インプットとアウトプットを繰り返しながら 今日を生きて 明日を築いて行きましょう。

観念論でも唯物論でも ひとつ共通しているのは わたしたちはわたしたち自身が 未来を選択する羅針盤として 哲学を持っているということです。

あなたはどんな羅針盤を 持っていますか。

自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。