スピリチュアルとのつきあいかた
唯物論的くらしとスピリチュアル
わたしは「弁証法的唯物論」にたってものごとを考えるので、いわゆる「スピ系」とはあまり相性はよくありません。
そうはいってもいくつか信じていることがあります。
①大切なものがなくなるときは自分の身代わり
単に、そう考えるとなぐさめになるからです。ただしこの理屈は「起こりようがないこと」を前提にしているので、証明しようとすると、いわゆる悪魔の証明に足をつっこむことになります。
ここまで考えて「仕方ないな」と、あきらめます。
②さがすのをやめたときみつかることもよくある話
そのまんまです。いわゆる「マーフィーの法則」的なことは確かにあります。とはいえこれも「嫌なことは記憶に残りやすい」法則にのっとってるだろうなとは思っています。
③いわしの頭の信心から
身も蓋もない言い方が続きますが、わたしはすべての精神活動を全否定するわけではないのです。自分自身は神様がいるとは思っていませんが、神様を信じる心は否定しません。
娘が6年生のときだったか。こんなことを言いました。
「わたし神様に委ねるとか、怖いんだよね。だって自分で決めなければいけないのに神様に決められちゃうんでしょう?自分はどこに行っちゃうんだろう?」
自分がどこかにいってしまうことを「怖い」と表現した娘に、感心してしまったものでした。
わたしは宗教を哲学のひとつと考えたとき受け入れる力が湧いてくるように思います。しかしその哲学は時として、社会に負の影響を与えることがあります。特に盲目になったとき。
絶対に守られるべきことは、政教分離の原則です。政治家個人がどんな宗教を信じていても関係ないです。それは自由です。でも組織的にそれを進めようとしたときは、戦争に一直線に結びつくということは歴史が証明しています。
「癒やし」や「決意」としてのスピリチュアル
ところでわたしは、起業家でもあります。
わたしの起業の仲間には自身がスピリチュアルなお仕事をされている方もいるし、当然お客様にもスピリチュアルな商品を宣伝してほしい方もいらっしゃいます。
そして「お絵かきムービー」とスピリチュアルはとても相性がいいです。
わくわくと想像したり、ほっと癒やされたりすること、泣いている、怒っている思いを絵にすることで精神世界がまるで触れるもののように浮き上がってくるのです。
医療に催眠療法があるように、例えば自然の中からエネルギーをもらったり、カード占いをきっかけに自分を深堀りして進む道を選び出したり、そういうことはわたしは否定されるものではないと思います。
しかし「そもそも自分自身の中に力がある」「自分が決めなければなにも決まらない」「わたしがやらなければ誰もやらない」ここに目を向けないお仕事は、少なくともわたしはお受けできないなと思います。
これは別にスピリチュアルでなくても同じです。
スピリチュアルはあくまでもきっかけであり、実際の行動は自分にしかできません。
でも自分の心が自由に開放されたり、緩急を自由にコントロールできたときには無限の力を発揮できるでしょう。そこのところはわたしは自分自身に対しても、信じています。
自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。