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明智光秀と一族家臣の謎に迫る   小和田哲男

2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀。主君であり、舅でもある織田信長を本能寺で討つまでの息詰まる人間ドラマが描かれ人気を博しました。
そのドラマの時代考証をされた小和田先生が息子の秀満を含め、前半生とその人となり、400年間解けなかった、「なぜ、光秀は、主君・信長を討ったのか」という問題に肉薄します。執筆直後の小和田先生にご執筆への思いを語っていただきました。


◆最近の信長研究の動向を踏まえて

 明智光秀については、出生地だけでなく、生年、父親の名前も諸説があり、歴史的に有名な武将の割に謎が多い。室町時代、美濃国の守護だった土岐氏の分かれの明智氏であることは確実とされているが、その明智氏のどこに位置づけられるかについては不明な部分が多い。

 しかし、そのような光秀が、織田信長に仕えるようになってから、みるみる頭角を現わしたことは事実で、信長の、譜代門閥主義でない、能力本位の人材抜擢のおかげで世に出ることになった。その点は、同じように「中途入社組」で、ライバルとして功を競うことになる木下藤吉郎秀吉と同じである。

 出自をめぐる謎とともに、光秀の謎としてクローズアップされているのが本能寺の変である。信長から「一番の働き頭」と称賛され、信長の信頼を受けていた光秀が叛旗を翻したわけで、光秀がなぜ謀反に及んだのか、その真意は何だったのかについても、これまで実に多くの説が提起されている。
 以前、私は、信長が朝廷勢力と対立し、天皇および公家を蔑ろにする行動に出たのに対し、それを止めようとしたのが本能寺の変であると考え、「信長非道阻止説」なるものを提起したことがあった。その背景には、研究者の間で主流となっていた公武対立説があった。

 ところが、最近の論調は、公武対立説ではなく、公武協調説が主流になってきている。たとえば、天正九年(一五八一)二月二十八日の京都馬揃えを例にとると、私は、正親町天皇に譲位を迫る軍事パレードとみたわけであるが、むしろ最近の研究では、皇太子誠仁親王の生母新大典侍が前年の十二月二十九日に急死し、京都を覆った沈滞ムードを一掃するねらいだった。つまり、信長が誠仁親王を励ますためのものだったとする。そうした最近の公武協調説に対する私の考えも本書では展開している。 

◆湖水渡りだけではなかった明智秀満

 これまで明智光秀に関する本では、当然のことながら光秀がメインになるので、一族家臣についてはほとんどふれられてこなかった。今回は、本書のタイトルのように、光秀だけでなく、その娘婿である秀満も取りあげている。といっても、史料的な制約があり、詳細にというわけにもいかないが、新発見の文書も盛りこんだつもりである。

 秀満の出自も謎で、系図では、光秀の叔父明智光安の子として、従兄弟としているが、秀満の実父は三宅出雲守ともいわれている。また、秀満の名前についても、一般的には左馬助光春が知られている。安土城から坂本城に移るとき、名馬を駆って颯爽と湖水渡りをしたことで有名であるが、確かな史料には光春という名前は出てこないで、秀満である。湖水渡りだけでなく、丹波福知山城の城主として、その地の支配にあたっていたことについても掘り下げたつもりである。

(『ミネルヴァ通信「究」』2019年12月号)


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