解釈の多様性とアニメにおける作者の問題

最近、好きなカプが無事結婚されたそうで。

これについてはたくさんの人が既に語っておられると思うので、大体の問題はそちらを読んでいただくとして、ここでは自分が気になったことを書きます。

ここ半月ほどで起こってたことは、個人的に色々興味深い出来事でした。
興味深いというと何か楽しんでたみたいであんまり印象よくないかもしれない。でも多くの問いかけに満ちていたと思います。

まぁ大まかにタイトルに書いてるんですけど、作品を解釈するってどういうことなのか、ってことです。

これは小説でも実写映画・ドラマでも漫画でもアニメでも変わらないんですが、我々はある物語作品の中で、はっきりと語られていない空白の部分については基本的に頭の中で解釈して補足するしかないわけです。
そして、それをどう解釈するかについては受け手各個人にゆだねられる。
それってわりと暗黙の了解じゃないかなと思っていました。

でも、今回の結婚について起こった騒動(と敢えて言っちゃいますが)は、その部分をちょっと揺るがしていたと思います。

まず前提として、某雑誌で声優さんが発言したことが後に修正されたことについては、異論はありましょうが私はあくまで「演者」の話だと思っていて、物語を作った「作者」サイドではないと考えているので、そこまで問題だったとは思っていません。

それよりも、問題だったのはその後で「公式声明」として、本編については一人一人の解釈に任せる、という旨の発言を出してしまったことだと思います。
そこで多くのファンが混乱してしまったわけですね。あそこまで描写しておいて解釈の余地があるかのような発言はおかしいだろと。

自分も同じように思いました。
説明するのは面倒くさくなったので自分の発言を引用します。

そんな話なんです、が!
これって上記の「暗黙の了解」と矛盾するよね。

要するに、作中で明言されていないことについては基本的に受け手の解釈にゆだねられる。そこでは各個人の解釈があってよい。
でも、「こうとしか解釈できない」こともあるんじゃないか、ということです。
つまり物語中で語られた様々な要素、文脈からして明言されていなくてもこの解釈をすることが自然であって、他の解釈は許されない、という状況があるのか。
これは私にとっては結構衝撃的な問いでした。「作品の解釈には多様性がある」は私からしたら当たり前だったからです。

noteの過去記事とかX(故ツイッター)とか見ていただくと分かるとおり、私はちょいちょい聖書を読みます。
聖書というのは古代の書物だし、そもそも原典にも色々なバージョンがあったりして、解釈の幅が相当にありまくります。すべての人に共通する解釈は存在しないんじゃないかというくらいです。

でも、「いくら解釈の多様性があるといってもこれはちょっと無理だろう」という解釈も実はあったりするわけです。
ちょっと前に一部で話題になったのですが、イエスの母マリアが処女懐胎したのではなく、性的加害によって身ごもったとか。(「信仰」のあり方は別としても、著者の意図としてはまずないだろう。)

要するに物語的な空白があったとしても、さすがにこれはぶっとび過ぎだろうという解釈はある。同じように、「こうとしか解釈できない」時もあるのかもしれない。
今回の一件はそんなことを考えさせられました。

あとは、アニメの「作者」って誰なのか。「公式の言葉」はどこまで解釈に対して影響を持つのか、ですね。
これは正直かなり難しいです。アニメが一人の人によって作られているわけではなく、プロデューサー、監督、脚本やそのほか制作に関わる多くの人によって成り立っているからです。
なので、アニメにおいて「作者」と呼べる人、ある程度作品の解釈に対しても口を出す権利を持ってる人はどの人なのか、というのはかなり複雑だなぁと思います。

そんな中で、「こうとしか解釈できない」部分について、「公式声明」として、一人一人の解釈に任せるという発言があったために、混乱したり怒ったりする人が出てきてしまった。そういう出来事だったと思います。
ただ、自分も公式公式って何かと言ってしまうんだけど公式って誰のことか?というのは案外判然としてないなぁ、とも思いました。

我々は物語を楽しむ時、意識的にも無意識的にも「解釈」する。そこには当然多様性があっていい。
でも、あなたの解釈は本当に「解釈している」と言えるのかな?
自分の願望や恣意的な読みが相当に入ってしまってない?

なんてことを色々考えたおはなしでした。
おわり。

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