「春日狂想」

大切なひとやものを失うこともあるだろう。その喪失感から生きていくことがしんどくなったら、この詩を読んでみるといい。

この詩は中原中也が息子を亡くした後に書かれたものだ。その喪失感と絶望は冒頭の「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。」という言葉として突き刺さってくる。愛するものはもういないのだから、それしかない。

しかしそれでも人生は続いてしまう、愛するものが死んでも業があるだろう自分は生き長らえていくしかない。では、どう生きれば良いのか。
中原は「奉仕の気持に、ならなけあならない。」と続ける。この詩における奉仕とは、私は「普通に生活して見せる」ことではないかと思う。
テンポ正しく散歩し、出会う人に挨拶し、愛想し、テンポ正しく握手をする。「ハイ、ではみなさん、ハイ御一緒にーー テムポ正しく、握手をしませう。」。

これが作者にとっての「狂想」なのだろう。当たり前に続いてしまう、他人にとって当たり前の日常を他人ではない自分もまた「ふつう」に過ごして見せること、続いてしまう「日常」を日常そのものとして受け入れて見せること。きっとこれこそが中原の「狂想」だ。


喪失感、絶望を経ても続いてしまう日常を容易に受け入れられる筈はない、そんな日常は既に日常ですらない。この詩はこの点をユーモラスに描いて見せていると感じる。そしてこのユーモアは、きっと忘れてはならないものだ。
人生は長過ぎる、必ず色々ある。喪失感や絶望を抱えながらもなお生き続けて見せることが、きっと重要だ。

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