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【うつ病体験記】どうせ死ぬのになぜ生きるのか?

うつが発症してまもない頃、私は大学院の入試を控えていました。
この時の気分は最悪極まりなく、いつもピリピリして張り詰めていました。

このまま進学して研究を続けるべきか?

それとも就職を考えるか?

一体どうすれば……

その年は学部改組の関係で募集要項が秋頃に出されたので就活は手遅れといった状態でした…
ですから、「私には院進学しか残されてない!」と恐怖まじりの焦りを覚えてました。

もちろん進学を考えるうえで、研究をやり遂げることや院試に受かることへの不安も大いにありました。

しかし、何よりも一番大きかったのは…

「どうせ死ぬのになんで苦労して大学院に進学して研究しないといけないんだ?」

「この研究で成果が得られても、死ぬことを考えたら私にとっては何の価値もないよ!」

といった答えのない(もしくは答えづらい)疑問に振り回されていることでした。

うつ病の特徴なのかはわかりませんが、この頃は特に死を意識してました。
人はみな平等に死を迎えるという事実を前にして、いまここにあるということをすっかり忘れてしまったかのような…


でも、後で振り返るとなんとなく高校3年の秋と似てるなと思います。

本当は誰かに助けてほしい…

だからでしょうか、本屋で精神科医である名越先生の著書「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」のタイトルを見たとき、どことなく救われた気持ちになりました。

名越先生も医学部在学中にこの疑問に突き当たり、「自分が医者になって大丈夫か?」と悩んだそうです。
以下はこの本の抜粋です。

それは「追試に落ちているかもしれない」という具体的な不安ではなく、得も言われぬ漠然とした不安でした。もちろん「合格したい」という気持ちはあった。でも一方で、心のずっと奥底のほうに「合格したってしょうがない」という暗い不安が過っていたのです。
掲示板を見ると追試は三つとも合格していました。それで「どうやら留年を免れることができた」と胸を撫で下ろしたのもつかの間、次の瞬間、僕の心には「サァーッ」と嫌な風が吹いてきました。「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いが、再び僕の頭を占めるようになったのです。

当時の私も「院試に受かったところでどうなるんだよ!」と試験前も、そして院試合格後も悩み続けました。相変わらず私のこころにも嫌な風が吹いてました。

結局、高校の時と違って死ぬことを考えずなんとか乗り切ることができました。
でも、後味の悪い切り抜け方に変わりはありません。

なぜなら、この問いから目を背けること・考えないようにすることで切り抜けたからです。
休火山がいつ噴火するかヒヤヒヤするように、私のこころの中でこの問いは今も眠り続けているのです…

またどこかのタイミングでこの問題に直面する時のためにできることは、自分なりの答えを用意するくらいでしょう…

余談ですが、この本の中で名越先生は「禅をして心が落ち着くことを体感するのが、この問いから解放される方法である」という内容を示しています。

この時も、うつが悪化した時も、今も…
相変わらず私のこころに落ち着きはありません。
処方された薬を飲むだけでなく、禅やマインドフルネス、カウンセリングなどでこころのバランスを取る必要があるのでしょう…

どこかで「もっと頑張らないと…」と無理してしまい、それが祟って「死ぬしかない」とめげてしまうのもうつ病の特徴です。

こころのバランスを保つ方法も真面目に全力で取り組んでしまうからか、うつ病は厄介に思います。

本当は生きることに意味はない……
だからこそ、自分らしい意味を付ける!
まるで真っ白なキャンバスの上に自由に自分らしさを描くように……

しかし、うつ病で思考がままならない状態では自分らしさを描くこと自体が無意味で価値のないように感じてしまうのです。

これこそ「どうせ死ぬのになぜ生きるのか?」という無限のパラドクスに似た問いを生み出しているのだと思います。

だからこそ禅が効果的なのでしょうね。

この問いから脱出するには考えるよりも感じることが強烈に効くのでしょう。

「いきなり禅とか難しい!」というのであれば考えないことから始めてみてはどうでしょうか?
考えることは走ることと同じく、脳のスタミナを消費します。
「前頭葉を省エネモードにしよう……」くらいの気持ちでいいのではないでしょうか?

私の願いは、たくさんの人に少しでもこころの問題に関心を持ってもらうことです。 そして、こころの問題で苦しむ多くの人が癒される時代が来ることでもあります。 もし応援していただけるのであれば、サポートもよろしくお願いします。