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【無料】養魚秘録『海を拓く安戸池』(1)~生いたち~

野網 和三郎 著

〈注意事項〉
・文章、写真の説明文(キャプション)などは明らかな誤字脱字を除き、原文の通りとしております。ただし、著者略歴については、死去された年に関する記述を追加しました。
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(1)~生いたち~

  今では高松から高徳線にのると、一時間あまり、昔はがたがた道と、船にのって、泊まりがけで、高松まで用たしに行ったという。讃岐では一番東のはしにあたる、ここ引田の浦、西から南にかけては、山水屏風を思わせる、美しい阿讃の山並が、重畳のびて海にせまり、東、北には波静かな播磨の海が遙けく開け、かすむ播州明石の瀬戸に消え、淡路、鳴戸の島山を、指呼の間に見はるかす、昔から網の浦とも呼ばれて来た田舎漁村である。このひなびた貧しい漁村の片隅で、明治四十一年三月十一日、私は漁師の三男坊としてこの世に生れた。

  安戸池はこの網の浦から、北西にとって二キロあまりの道のりで、与治山山系の、山懐に抱かれた寄り州が原因で出来たところの、面積二十七ヘクタール余の鹹水湖である。

  この安戸池に何故手をつけるようになったかの、道すがらをひもとくために、一応幼ない頃からの思い出などを拾ってみることにする。

  生家は注1という家号でよばれ、地曳網などの漁をいとなみ、私がもの心つく頃には、播磨灘、紀州沖などの縛網漁業、それが遠くにのびて、朝鮮海域へも出漁するという状態なので、あみの浦では、まずまずといった、網元の部類に属していたということである。

 私の生れた頃の浦の模様を、祖母からいろいろと聞かされた話ではあるが、……一例をあげると、祖父の佐吉が、地曳網で捕るイワシを少しでも多くとりたいというのでいろいろと考えた揚句、従来使ってきた魚捕部の袋網を、幾倍もの大きなものに改良したそうである。ところがそれを見ていた他の同業者達は、そんなことをしても無駄なことだと笑っていた。ところが漁期が来て、みんな一斉にいわしの漁が始まったのである。祖父の考え方は、まさしく的中していた。

  注1の網のみ、昔からもなかったというぐらいにイワシの大漁が続き、浜では毎日大漁旗をはためかすという異変が起ったのである。笑っていた同業者達はみんなあっけにとられてしまったが、それが羨望となり、やがてのことにはねたみに変り、遂にはじっと見るにしのびず辛抱しきれなくなって、総勢で家に押しかけてくるという騒ぎにまでなってしまった。なんでも他に七、八統の地曳網が漁をしていたが、これらの全部の網の漁よりも、家の一統の網の漁が、はるかに多かったというのである。彼等の言い分は、今使っている袋網を使わないようにしてくれということであった。祖父はそれらの仲間に対して、「なぜわしが多くとって悪いというのだ、漁師は少しでも漁を多くするのが天職だ!そんなことで大切な漁を休むより、一人でも多くの人手をいれて、早く袋網を改良したらどうだ」と言ったのである。結果は彼等も袋網を改良するということにはなったが、彼等の袋網が出来上るまでは今使っている袋網を使うのを待ってくれということにとうとう落ちこんでしまった。

※注1 〇の中にさ。

安  戸  池

  祖父は心ならずも浦の平和のためには、と歯を喰いしばってそれを待つことになって、遂にその騒ぎは治まったということである。しかし彼等の袋網が、出来上った頃には、すでに沢山いたイワシはもう遠くの海へ、去ってしまい、浦にはもう毎日涼しい秋風が吹きつづいていたのだった。その頃の漁村の世情が子供心にもうなずけるような気もしたのであるが、なんだか腑におちないものを感じ、もったいない事をするものだという気がしてならなかった。

  この祖母の話を聞いた頃には祖父はすでに他界してもう四、五年もたった私が尋常小学校へあがったばかりの頃で、祖父の名を襲名した父の佐吉がその頃、朝鮮海域の方へ鯖漁を目的とした縛網に出漁していたので留守ではその漁の便りがくるのを唯一のたのしみに毎日待ち暮していたのを記憶している。

  或る日の夕方、学校から帰ってみると、「鯖大漁十万獲れた知らす」の電報がはいったというので、家の一族郎党はもちろん、出漁している網子の留守家族の人達も、入れかわり立ちかわり、喜びの色を満面にたたえ、大はしゃぎで祝いに詰めかけていたのを、今もなおたのしくほほえましい思い出として懐しんでいる。

  父の朝鮮海域への出漁については、香川県としても最も早い部類に属し、遠く北の清津方面迄も、鯖の群を探し足を延ばしたということである。それも今のように機械力ではなく、その頃は櫓漕ぎ、帆走で玄海灘を渡り、あの大きな船や大きな網を手漕ぎ操業していたのであるから、さぞかしであったと思われる。その頃はまだ大正初年頃であって、今を時めく或る大手業者の前身が、生魚を積む運搬船を三隻程造って朝鮮海域へ廻航し、縛網で獲るサバやサワラを極く安値で買い取り、これを内地へ運んで大変儲けていたということをよく聞かされたものである。なんでも当時の金にして大さば一尾を一銭、二銭で買い受け、内地では十銭、二十銭の高値で販売していたという。こうした事を指してか、父は「漁師ほど馬鹿な者はない」と、他人との話しの中でよく口にしていたのを覚えている。またたまらなく痛ましい、悲しい思い出としては、私が小学校二年生の時であった。

  出漁先の朝鮮一帯に、コレラ病が大流行して家の縛網にもそれが伝染し、責任者を初め、沖合船頭、網子と次々にコレラに感染し、遂にはその中の七名が死亡するという一大事が起きてしまったのである。当時父の代行責任者として出漁していた、父の次弟に当る兼吉叔父が死亡したという電報があってから、次ぎつぎと十日もたたぬうちに七名の者が死亡したのであるから大変である。父の苦悩の様相ははたの目にもいたましく、毎日のように詰めかけて来ては、「夫を返えせ」「父を返えせ」という怒声と、泣きわめく遺族達に責めさいなまれている父の姿は、悲痛そのもので、それをじかに見ている子供心にも堪えられぬものがあった。その後父は兼吉叔父の次弟に当る勘平叔父を代行責任者として三年程は出漁していたが、一方ではすでに転業策を考えていたのであった。よほど骨身にこたえたのだと思う。

 コレラで亡くなった兼吉叔父には子供が四人いた。未亡人の叔母一人で育てて行くのは無理なことで、長男の初義を、私の家に引きとって見てゆこうということになって、私が母の生家である阿波の親里へ里子に行くことになったのである。初義と私は年が同じであり、一カ所に置けばケンカをして面白くゆかないだろう、とみんなでいろいろ考え悩んだ揚句にそういう手筈になったのだと思う。私が七ツあがりで小学校の三年生、数えの九才になったばかりの頃で家には二人の兄があり、また私の下に三人の弟があるし、なにも差し支えはない。一方阿波の里方には、子供がなかったということなども合せ考えた結果が、こうした処置への真相であったのだと思う。

 祖母や母からはこんこんと説き聞かされ、初めは逃げかくれしていたのであるが遂に覚悟を決めねばならなくなってしまった。母が眼のふちを赤く染めて祈るように、私をなだめすかしているところへ、父が浜から帰って来たのである。土間に突立ったまま二人の様子を見てとってか、じっとうなだれ、半ばすまないような眼差しで私に何かを言いたいような気配に見えたが、遂に言葉にはならず、大きな溜めいきを一つ二つして、ウゥ……とうなっただけで、拝むような目を私にくれたまま、また力なく浜の方へ出て行ってしまった。その父が出て行く瞬間!チラッ…と私の脳裏をかすめるものがあった。それは朝鮮でコレラで死んだ遺族に責めさいなまれている時の苦悩の様相が再び思い出されたからである。よし、里子に行ってやろう!そうすればみんなが喜んでくれるんだ……と、勇気を出して母にうなずいたのである。

 それきり一と言の駄々もこねずに素直になり、何か重いものにでも圧しつぶされそうになっていた幼ない心の苦しみも、急にとり払われすがすがしい気安ささえ感じた位であった。祖母も母も顔を泣きはらして、喜んでくれた。お前は孝行な子だと……。その祖母も、母ももうこの世にはいないがその時の涙は本当に貴い美しいもののように今もなお時々思いだされる。

 それから十日もたったかと思われる頃、阿波の親里から祖父が私を迎えに来た。さて出発という日になって、荷物は出入りの魚屋さんに頼んでのち程届けて貰うことにして、祖父に連れられ、東の空がくれないに染まりかける朝ばやに、里子として旅立ちしたのである。

 親里への道のりは四里程もあり、その途中は阿波の連山で、しかも急坂で有名な大坂峠を越さねばならず年寄りと子供の事とて、峠までたどりつくには三時間もかかる悪い路であった。しばらく歩いては、疲れたといって路傍の草むらに腰を下し、しばらく休んでは、また立ち上ってとぼとぼと歩き出すといった具合で、山道にさしかかる頃にはもう日は高々と登っていた。母の里帰りに、あるいは背負われ、あるいは手を引かれて、何回も通った道ではあるが、母であって見れば駄々をこねては駄菓子を買ってもらい、足が病むといってはおんぶもして貰い、人力車にも乗せて貰えたものであるがこの時ばかりはそうはゆかなかった。

 祖父は士族育ちの頑固な人で、そんな甘い顔は少しも見せてはくれなかった。出発の時につくってくれた中に梅干をくるんだ大きな三角のむすびが十個、二食分ただこれだけである。つま先登りの坂道に、ごろごろ石がころげちり、ところどころ、尾根岩が道の中程まではみ出している悪い路で、歩きにくくて仕方がない。祖父も時おり、石ぐるまに乗っては、尻もちをついて苦笑していた。

 祖父は袂つき、私は筒袖、両人とも裾をからげてしっぽに把せ、握りめしを腰に縛りつけた爺と孫とのいでたちで、途中でひろった棒づえに、しがみつきながら、次第に遠ざかり行く引田の浦を、時おりふり返っては、半泣きになって険路とたたかった。気分がくじけそうになると、祖父はふり向きざま、頭の上からしっかりせんか!男の子でないか!未練を打ち消すように、峠はもう近いんだ!と喘ぎながらも底力のある叱声で私をはげましつづけたのである。

 やっとのことで、峠茶屋にたどりついた頃には、もう真昼が近く太陽は頭の真上になっていた。引田を立つ時、ま新らしい草履をはいて出たのであるが、もうつまさきときびすの所はすり切れていた。二人は茶屋の床机に腰を下して、汗と砂ぼこりでどろどろになっている顔や手足を拭いて、やれやれと自分にかえったところへ、腰の曲った婆さんが、ヨウコソー、ヨウコソー!と、何度もえしゃくをしながら、お盆に豆茶をのせて持ってきてくれた。その時のむすびのうまさと、豆茶の味と香りは、一生忘れようとしても忘れることのできない遠い懐かしい思い出となっている。

 親里では一年半ほど、里子としてみんなから大変可愛がられ、隣り近所の人々からは、讃岐のお子さん!と言って何時も珍らしいものなど貰ったりして、何不自由なく暮すことが出来たが、ただ祖父だけは私の躾については特に気をくばっていたように思われるのであった。

 或る日曜日の朝のことで、朝めしを終えて約束していた隣近所の友達と、吉野川へ魚釣りに出かけようとしているところが見つかり、こっぴどく叱られたのである。その怒声に驚いた友達はみなちりぢりに逃げ帰ってしまった。

 祖父は昨晩、浄瑠璃の会があるといって、夕刻早く他へ出向いていたので、釣りの話はしてなかったが、家の人にはゆるしを得ていた。それが、伝えがしてなかったとみえ、私もびっくり仰天である。祖父の言い分は、子供ばかりで吉野川などへ行き、川の渦にでも巻き込まれたら、という心配であった。義母の取りなしで隣りの若者に頼みを入れて同行してもらうことで、まずまずお許しが出て、つりに行くことが出来たがこのように、私の一挙手一投足のすべては、祖父の厳しい人格の砦の中でのみ自由というものが得られたのである。これも日曜日の朝であった。言いつけられたままに庭の掃除をそこそこにして、これから遊びに出かけようとしたところ、早速御目玉ちょうだいである。

 「勉強もしないで遊んでばかりいる」ときめつけられ、机に向わせられ、二時間も横につききりで、手習いを強いられ、時々姿勢がよくない、と言っては、鉄の堅い文鎮で、背すじをごりごりと、こすられたりしたものである。そうして暮しているうちにも、私は尋常四年生になっていた。それはもう、朝晩は底びえを覚える秋の終り頃で、夕餉を終えて縁側でつるべ落しの秋の太陽が美しく真紅にかがやいて、もうすぐ前の竹藪に沈んでゆくのを見やりながら、なにくれとなく、物思いにふけ入っていた時、炉ばたでこつこつと煙管で煙草をくゆらしていた祖父が、急に私を呼びよせ、しばらくじっと私の顔を見詰めてからのち、重い口調で物静かにしかも落ちついた声で、「明日は讃岐からお母さんが来ることになっている」と、思いもかけぬことであった。私は、ええ!と一口言ったまま、一ときの間は、言葉が出ない程胸につまるものを感じたのであった。その夜は、興奮の余り何故かろくろくと寝つかれもしなかったが、そばで寝ている祖父もなかなか寝つかれないとみえて遅くまでこつこつと煙草をくゆらしていた。

 翌日学校から心はずませ帰ってみるとはたして母が来ていた。まだついたばかりとみえて讃岐から持って来た魚を隣近所へのおすそ分けの最中であった。ちょうど魚籠に五、六匹の魚を入れたところであって、祖父が私を見るなりこれを吉野川へつれて行って貰った近所の若者の家へ讃岐の土産といって上げてくるようにと言われた。鞄もそこそこにおいて小走りで持って行ったのである。ところがそのお返しには、私の好きな真赤にうれた大きな甘柿が籠一杯にもられていたので、それが重くてよたよたしながら汗を流して帰ったのを覚えている。

 夕食をとりながらの母の話しでは、お前を讃岐へ連れ帰ることになったので迎えに来たのだということである。私は一瞬信じられないような、そして飛び上る程うれしい話である。それは讃岐の方では、初義が家にはなかなか居付かずに、この頃ではもう親元へ、帰えったきりになってしまったので、お前を讃岐へ連れ戻すことになったのだという。私は母の顔と、そばで一緒に食事をとっている祖父の顔とを、かわるがわる見比べるように、そして落着かぬ気持で、そわそわと食事をとっていたが、しばらくして祖父が、持っている箸の手を休めながら膝におき、柔らいだそれも聞きとりにくい程の微かな声で、なあ和三よ!お前が讃岐へ帰ってしまったら、わしももうこれから、寂しくなるけれども仕方がないよ!と、自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、かすかではあるが、盗み見の眼差しには涙のようなものが、チラッ!と光っていたのを見のがさなかった。

 祖父は、私と母を讃岐まで見送って来ると、五日程は遊んでから、魚を土産に阿波へ帰って行ったのであるが、その後幾ばくもなく胃病がもとで他界してしまった。その当時の祖父は私にとっては、力強い頼り甲斐を感じさせ、厳しい躾けに対してもそれが素直に受け入れられさほど苦痛にも感じられなかったのは何故だろう!と、それが血の流れであるということを祖父の死後初めて感得することが出来たのである。

 私が里子から帰るようになったのには、もう一つ外に理由があったのは、後になって感づいたことで、嫁いでから幾年もの間、子供のなかった義母に初めて子供が生れるということであった。もしそうしたことがなければ、私はきっと親里の後継者として、現在とは全く違った人生を送り続けていたことだろうと思われ恐らくは安戸池養魚事業などには、手がつけられてはいなかったろうにと、つくづくと思い返されるのである。そこで人生とは、一寸した出来事のためにも、自分では意識もしないうちに、風の間にまに、或は西に或は東にと押し流されて行くところの運命というものを、生れながらにして背負わされ、また義務づけされているものだということを、しみじみと考えさせられるのである。私の場合は、本当にしあわせ者であったことを心より感謝している。

養魚秘録『海を拓く安戸池』(1)~生いたち~〈了〉

養魚秘録『海を拓く安戸池』(2)
https://note.com/minatoshimbun/n/ne3a379ee9b7f


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