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第127回往復書簡 足立山(日記と手紙)

牧野伊三夫 →  石田千さんへ

  ジャムパン

 この頃、朝目がさめると、しばらく布団のうえでボンヤリと昔の記憶をたどるようになった。昼寝で眠りに入るときもそうしている。どれもとても断片的で、話の前後がつながっていない。想い出しながら、なぜ自分はここだけをおぼえているのだろう、とおかしくなることもある。子供の頃の自分を遠くから眺めるような視点で、まるで映画のように、記憶のなかで自分が何かするのを見ている。
 今日は、祖母が植えたアジサイの茂みでカタツムリを探していたときのことを思い出した。そのあと、なぜか家の隣にあった古いアパートで、裸電球が灯るうす暗い廊下を、鬼ごっこしたときに土足で駆けたときのことが想い出された。このアパートの廊下は、本当は靴を脱いで下足箱に入れ、スリッパに履きかえなければいけないので、住んでいる人に見つかると怒れらた。
その住民のひとりに、新聞配達夫のお兄さんがいた。ときどきキャッチボールの相手などして遊んでもらっていたのだが、あるとき部屋へ遊びに行くと、
「おい、いさお、ジャムパン買ってこい」
 と僕にお使いを言いつけて部屋を片づけ始めた。これから恋人が家に来るのだという。へえ、兄さんにもそんな人がいるのか、と子供ながらにうらやましく思いながら苺のジャムパンを買って帰ってくると、いかにも腹がへっていたというふうに、うまそうにむしゃむしゃ食べはじめた。そして、食べながらおもむろに、
「おい、いさお。お前、キスしたことあるか。その顔がな、たまらなくかわいいんだ。むふふふ。たまらん。わからんやろうなぁ」
 と言うので、僕は目をぱちぱちさせた。どうにも、うれしさをこらえきれない様子で、遠い目をしてニヤニヤ笑っていた。唇をジャムで赤くしているので、なんだか兄ちゃんは、ジャムパンとキスしているみたいじゃないかなんて思っていた。そのうち、コンコンとノックをする音が聞こえ、兄さんが立ち上がってドアをあけると、ワンピース姿の可愛らしい女の人が立っていた。兄さんは、ちょっと照れくさそうに頭をかきながら、
「おい、いさお、帰れ」
 と僕を返したが、そこで記憶はとぎれている。そのあと、何度かその女の人を見たような気もするし、お兄さんがフラれて泣いていたような気もする。もう五十年も昔の記憶で、なにか別の記憶と混ざりあっているのかもしれない。ただ、その日、やけに陽気だった兄さんが、ジャムパンをかじって、ニキビだらけの頬をもぐもぐさせていた様子は、よくおぼえている。
  

  フェリー

 来月初めから福岡の「はこしま」で個展がはじまる。ここのところずっとアトリエにこもっていて、昨日は「春」という題の絵が完成した。はこしまは、箱崎縞という博多の伝統的な織物で作った服を売る店だが、美味しいバームクーヘンを出すカフェもあって、地元のお洒落な人たちが遊びにやってくる。店主は友だちの林舞さんで、ファッションデザイナーのご主人が服を作り、彼女はここで子育てをしながら店番をしている。
 昨年、開店したとき、僕は、この店のロゴマークや包装紙のデザインをさせてもらった。個展は、店の一周年記念の催しなのだが、店の壁に大きな絵を飾ることになったらしく、その制作依頼もあった。それで、少し早めに東京を発って、小倉のアトリエで制作することにした。
 こういう絵を描くときは、新幹線や飛行機で急いで向かうより、なんとなくゆっくりと、夜の海でも眺めて、あれやこれや考えながら旅をしたい。それで久しぶりに大阪からのフェリーを予約しておいた。いまから船上で、ウィスキーにするか、酒にするか、つまみはどうするか、そんなことが楽しみである。一夜、寝ころがって瀬戸内の波にゆられ、画想を練りながら向かうのである。
 (4月25日月曜日)

             春  アクリル F8号 2022年


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