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第41回往復書簡 アラ

牧野伊三夫 → 石田千さんへ

 通りを歩いていて、突然腹の底からあらん限りの大声を出してみたくなる。が、もちろんそんなことはやらない。行きかう人たちを見て思いとどまる。台風などの嵐は干潟のよどんだ水を浄化して生物たちの生命をはぐくむ役割があるのだと聞いたことがあるが、自分の体も時折大声をあげたいとか、ぐでんぐでんに酔っぱらいたいなどという、嵐のような激しい燃焼を求めることがあるのだ。おそらくこうした欲望は絵を描くことともどこかでつながっているに違いない。こんなとき、どこか、山奥の村で大声大会などあれば参加してみたいと思う。
 千さんが髪を切ってシャンプーを二回プッシュしていたのが一回になったというので、それより髪が短いであろう僕も一回にしてみた。これまでなんとなく一回では心もとない気がして、意味もなく二拍子を刻むように二回プッシュしていたのだが、たしかに一回で十分であった。そのあと、黄色い王冠のような丸いブラシで頭をガリガリやって頭皮を刺激する。もう五十代後半、禿げませんようにと願ってやるのだが、そのうち禿げてきたら潔く丸坊主にでもするか。
 このところ鯛が安いので、たびたび買ってきては昆布じめにしている。コロナですし屋へ行くはずの鯛が我が家にもまわってきているのだろうか。昨日も大きいのをひとさく買って、半分刺身にして残りを昆布じめにした。夜も涼しくなってきたので、窓を開け放って鍋におでんを仕立てて、ししゃもとこまい、それとマグロの串を七輪で焼いて酒をのんだ。マグロでもカジキでも、あるいはカツオでも、刺身で食べるのもけっこうだが、強めの炭火で表面だけカリッと焼いたのにニンニク醤油をさっとつけて食べるのもおいしい。皿に刺身で盛りつけていたのをつまんでのんでいるうちに、どうにもこうやって食べたくなり、ニンニクをおろし、網にのせて焼いたりする。
 こうして焼いて食べるのもうまいが、酒蒸しも実にいい。小鍋にごま油とオリーブ油を少々、そこに切り身を放り入れ、白ワイン、塩、コショウをふって蓋をして蒸しあがるのを待つだけである。食べるときに白髪ねぎやパクチーなどのせて、しょうゆをたらす。いずれも酒の肴にして食べていると、途中からどうにも白飯が食いたくなってくる。それで後で後悔すると知りながら我慢できず、途中で茶碗に盛っためしにのせてかきこんでしまう。後悔というのは、腹がふくれて酒が飲めなくなることである。しかし、満腹になったくらいで今宵終えてはなるものか、となおも梅干しなどつついてのみ続けるのである。焼く方も蒸す方も僕は血合いの混ざったアラの方がうまいと思う。ねぎま鍋なんかもそうだ。上等なカジキの切り身なんかより、脂が多く、血合いの混ざったのを塩をふってさっと湯引きして臭みをとり、小鍋で白葱と煮て酒をのむ。こういう魚のアラで一杯やっていると、場末の酒場にいる心地がして、なんとも落ち着いてくる。

(9月16日水曜日)

月金帳41 アラ


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