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第115回往復書簡 足立山(日記と手紙)

牧野伊三夫 →  石田千さんへ

  弱まる感受性、鈍感な心について

 先月末、秋田の妻の実家に一週間ほど雪かきの手伝いに行った。山形との県境に近い山に囲まれた豪雪地帯で、人の背丈よりもずっと高く除雪の雪が積み上げられている。南国育ちの僕などは要領も悪く、大して役にも立たないが、スノーダンプで雪を運び続けた。なかなかの重労働で、はじめは厚い上着にマフラー、セーターなど着こんでやっていたが、やっているうちに大汗をかいて、最後はマイナス気温のなかで下着一枚になった。でも、本当は汗をかくほどやってはいけないらしい。地元の人たちは毎日のことなので、一回に四、五十分程度、汗をかかないくらいに分けて、日に二、三回、少しずつやる。ついはりきってやってしまうのも、雪国での生活を知らないがゆえである。そんな未熟者ではあるが、夜の酒だけは地元の人に負けないくらい飲んだ。屋根に積もった雪がたまに落ちてくる音しかしない、山のなかのキンと空気がはりつめた静寂のなかで飲む酒はうまい。そして、寒いのに、なぜかひや酒がうまい。毎晩、地酒である両関の銀紋を一升瓶からコップに注ぎ、タラだの、セリだのを肴に飲んだ。酒がすぎて、台所の床でスリッパを枕に寝てしまった夜もあった。
 ある晩のこと、夜中の三時まえに小便で目がさめ、家族が寝静まった家の暗い廊下を歩いて厠へ行った。用をたして寝室に戻る途中、玄関から外の吹雪く雪景色を眺めると、暗がりに小さな外灯がともっていたのだが、ふと、そこに雪女が立っているような気がして、背中がぞくぞくっとした。それで足早に戻って布団にもぐり込んだが、こんなふうに怖くなったのは、思えば久しぶりのことで、僕はなんだかうれしかった。雪山の自然に囲まれて、無垢な心が蘇ったのかもしれない。子供の頃は、よく親が突然いなくなることを妄想しては、悲しくなってすすり泣いた。また、目をつむっていると幽霊が枕元に現れるような気がして、布団のなかでずっと目をあけていた夜もあった。そういう心配がないときでも、目をとじると、宇宙のむこうはどうなっているのか、そしてまたその外側は、などととりとめのないことを考え、自分の存在がだんだんと小さくなり、しまいには目にも見えないほど小さくなっていくのを想像して、どうしたらよいかわからなくなった。その頃は、いまよりも、はるかに感受性が豊かであった。そんな妄想をいつから思わなくなったのだろう。絵を描くのに、大切な感覚なので、鈍感になった今は残念に思う。しかし、鈍感になった分、反対に、子供の頃よりも経験から現実のいろいろを楽しんで眺められるようになった。思考がゆるやかになり、肩の力をぬいて絵を描けるようになったな、とも思う。いつの間にか、何をしても鈍感の、ゆるゆる、ヘラヘラ笑っている奇妙なオジさんになっている。
 
  美術同人誌「四月と十月」のリニューアル
 
 印刷代が高騰して赤字が続いていたので、十二年ぶりに「四月と十月」の運営の見直しと誌面のリニューアルを行った。頁を減らしたり、仕様を変えたりして印刷代を安くすることや、同人の会費や販売価格を値上げすることを、小学生の算数レベルで昨年の秋からいろいろ試行錯誤を繰り返していた。その結果、八十四頁の誌面を五十二頁に縮小して、印刷所を変え、会費も販売価格も値上げしなければならなくなった。検討を進める途中、編集の北さんはじめ、制作スタッフたちから次々と自分のギャラを削ってほしいと申し出があったことにも心を痛めた。二〇〇三年から十八年間ずっと刷っていただいていた大洋印刷さんには、会社の文化事業として保護してもらい、本当にお世話になった。これからは、自分たちで継続の道を探っていかねばならない。さて、どうなることだろう。まずは、疫病が落ち着いたら、担当だった大槻さんをお招きして、これまでの御礼に一席もうけさせていただくことにした。お互い、つらい夜になるかもしれないが、こんなときは酒でも飲むしかない。

(2月2日水曜日)

秋田 雪景色


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