第117回往復書簡 足立山(日記と手紙)
牧野伊三夫 → 石田千さんへ
民藝
国立近代美術館で「民藝の100年」展を見た。昨年暮れに都立美術館で行われていたゴッホ展へ行ったとき、予約制だということや、当日の入場券に限りがあるということを知らずに行って結局観ることができず、悔しい思いをしたから、今回はネットで予約券をとっておいた。
美術大学を卒業したての若い頃は、民藝と呼ばれるようなものに、どこか説教くさく、年寄りの趣味のようなものを感じて、まったく関心をもたなかった。当時は、ヨーゼフ・ボイスやマルセル・デュシャンなどの現代美術と呼ばれるものに憧れていて、破壊とか喪失の臭いがしなければ物足りなかった。いまもその思いは変わらないが、三十代のはじめ頃に画家の中村研一が作陶したという島根の湯町窯を訪ねてから、徐々に心惹かれるようになっていった。実用を満たすために人間の手によって作られた物には、ずっと眺めていたいと思うような絶対的な存在感があり、いわゆる現代的な物とは全く異なる時間が流れていた。その頃僕は、理論づくめの美術に翻弄され、空虚さにそろそろ耐えられなくなっていた。この無垢な、どっかりと生活に根をおろしているあたたかな世界は魅力的だったのだ。絵描きとして、この世界に身を投じるべきではないかとも思った。
湯町窯のある宍道湖周辺の布志名とよばれる地域は、かつて民藝運動がさかんで、湯町窯には研一の他にも棟方志功や熊谷守一などの作家が残した絵や器が大切に保存されていた。僕は単純に、旅をして地方の伝統的な仕事をする工芸家たちと共作する画家たちの仕事ぶりをうらやましく思ったが、一方で、民藝運動家たちが愛したセザンヌやゴッホなどのフランス近代の画家たちのことも詳しく知りたいと思うようになった。また同時に、民藝運動が行われた当時の日本の画家たちの活動にも深く興味を持つようになった。
その後、柳宗悦が書き残した本を読み、旅先で民芸館や民芸品店を訪ねたりもするようになったが、民藝運動家たちの言葉を借りれば、このように民藝の世界に心惹かれていくことを「民藝に目覚める」と言うらしい。僕は、柳の「もし、人間の手と同じ働きをする工場をつくったならば、とてつもなく巨大な工場になるであろう」という考えにも共感して、以前よりもずっと自分の手がする仕事を信頼するようになった。
たとえば本の装丁やちらしの版下を作るのに、マックにはたよらず、積極的に筆やペンでレタリングをしたり、版画のように複数の版を描いたりするようになった。いまどきマックが使えないので、もう世の中においてけぼりにされるだろうと思っていたが、この頃は「手マック」などと呼んで楽しんでいる。これで十分というか、手で描いた方が、不便である分次々とやりたいことが見えてくるのである。
さて、ずいぶん久しぶりに都心へ行くので、千鳥ヶ淵の景色など描こうと画帳を持っていったが、雨足が弱まらない。それで美術館の建物の庇の下に立って、マリノ・マリーニの彫刻をスケッチする。「あるイメージの構想」という、この塔が崩れたような形の半抽象的な作品のモティフは、馬と騎手であろう。しかし、「あるイメージ」とは、いかなるものか。彼は、あの完成された馬と少年の具象的な形を、一体何のために壊して、どこへ向かおうとしたか。そんなことを考えながら鉛筆を走らせていた。
(2月14日月曜日)
「スケッチ 2022年2月13日 国立近代美術館にて」
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