第101回往復書簡 足立山(日記と手紙)
牧野伊三夫 → 石田千さんへ
佃煮
久しぶりに小倉へ帰った。一年八カ月ぶりのこと。「雲のうえ」と壁画の仕事を兼ねての帰省で十日間ばかりいた。古いマンションの一室をアトリエに借りて、玄関の表札に子供の頃から慣れ親しんだ足立山の名を筆書きしている。帰省のときはここで寝泊まりして、仕事をする。しばらく主の来なかった小倉のアトリエは、蜘蛛の巣がかかって埃にまみれており、まずは大掃除。押し入れの布団も出して太陽にさらした。
来年から建て直しがはじまる旦過市場を、もしかしたらこれが見納めになるかもしれないと思いながら歩く。ここは戦後のヤミ市の風情を残す市場で、実にいい趣きがある。しかし川の上に建っており、このところの異常気象でたびたび深刻な水害に見舞われているから仕方のないことかもしれない。北九州市のうまいものは、たいがいここへ来ればそろっており、威勢のいい店主にあれこれ尋ねての買い物も実に愉快だ。量り売りの昆布の佃煮を見つけて、五百グラムつめてほしいと店のおばさんに頼んで、こんなにたくさん買ってどうするのかと言われる。これから寒くなって、朝、茶粥と食うのがたのしみなのである。
塩田
福岡の友人の伊藤敬生さんの案内で、糸島半島の突端にある芥屋(けや)というところに、平川秀一さんの塩田を見学にいく。このあたりで獲れる牡蠣はおいしいので、海岸には観光客のための牡蠣小屋が並んでいる。南に向いた海岸は日当たりもよく、塩づくりに適しているからと、平川さんが自らユンボを操って山を削り手作りの小屋を建ててつくった塩田である。海水を炊く大きな釜の屋根には、薪を燃やすための煙突が立っていて、そこに大きく「塩」という文字が書かれている。その素朴な景色があまりによかったので、カバンからスケッチブックをとり出した。
平川さんの本業は料理人。この浜から半島の中心部へ行ったところの前原という町に、平川さんが「おしのちいたま」という名の塩そば屋を開店させることになっている。少し変わった名前だが、これは塩田の屋号の「またいちの塩」を逆さに読んだもの。まるでジャズメンのようなノリ。平川さん、なかなか遊び心がある人なのだ。試食にといただいた全粒粉のぶつぶつした麺を用いた塩そばも、実にうまかった。
僕はその店のふすまに描く絵の制作を依頼されていて、翌日行くことになっていた。その晩は半島の松林の中にあるbbbhausという美しいホテルに泊まって、部屋で東京のアトリエで描いた習作をひろげて最終の画想を練った。
絵を描くふすまは、タテ2・7メートル、ヨコ4・7メートルで、唐津の「紙漉思考室」に特注で漉いてもらった厚くて大きな和紙を建具職人に貼ってもらっていた。背伸びしても筆が届かないので足場も用意しなければならない。水墨画を描くつもりであったが、水墨画というのは一発勝負で描き損じは許されない。本描きにむけて僕は東京のアトリエで習作を描いていたが、それよりも、精神集中するための瞑想のトレーニングを繰り返しやっていた。
画材に墨汁をバケツ一杯用意していたのだが、平川さんの塩田を見学したときに、薪を燃やしてできる煤のような灰を見つけて、もしや絵の具として使えるかもしれないと分けてもらった。糊を混ぜて練り、試し描きをしてみたら、なんともやわらかくて、表情豊かな深みのある黒色だった。それで、墨汁は用いずに、こちらを使うことにした。
絵のタイトルは「太陽と海と風」。そばで見ていた伊藤さんにたずねると、描いた時間は四十分ぐらいであったらしい。描く前、僕は、トンカン、内装工事の音のするなかで床に座って長い時間、静かに目を閉じて深く呼吸をし、糸島の美しい海と塩田を想って瞑想をしていた。
外出もままならない折、描きにいけないかもしれないと心配してもいたので、出来あがったときは感慨深く、ほっとした。「おしのちいたま」はいよいよ今月二十九日開店。またのぞきにいこうと思う。
(10月25日月曜)
糸島壁画 10月17日 伊藤敬生撮影
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