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第62回往復書簡 中南米バナナ会社

牧野伊三夫 → 石田千さんへ
 
 堀内孝君の絵本ができあがった。写真家である彼が、地元を流れる北上川の下流にひろがるヨシ原と、そこでの人の暮らしやヨシ原に住む生き物たちを長年かけて取材して、物語としてまとめたものだ。ここではべっこうシジミと呼ばれる大きなシジミの漁や、かやぶきのためのヨシの刈り取りなど、昔ながらの生活が今も残っている。また、めずらしい昆虫や鳥もいて、彼は通うほどにこの場所を自分の宝物のように思うようになった。ところが、十年前の春、東日本大震災の津波によってその多くが流され、風景は一変してしまう。その後、絶望的な気持ちになりながらも通い続け、ヨシ原を再生させようと頑張る人たちや、少しずつ回復していく自然の姿を追うのである。
 僕は、この本の物語を補足するために、撮影をする堀内君の姿などの絵を描き、同人雑誌のデザインをお願いしている青木隼人君と一緒に写真や文章を割り付けるデザインもやった。絵を描くために、堀内君の車で北上川の河原を走り、この川で獲れるべっこうシジミを食べたりもした。このシジミはアサリのようなプリプリした触感だった。多賀城に住む堀内君からは、これまでにも母方の実家でつくった松島湾の海苔や塩釜港であがる魚介など送ってもらったことがあったが、このシジミもまた別格だった。
 堀内君と最初に会ったのは、もう三十五年も前のことで、その頃、僕は二十二歳。ひとつ年上の彼は二十三歳で、レンタルフォトの貸し出しや国内外の写真家の展覧会の企画、写真集の制作などをする都内のPPS通信社という会社に勤めていた。僕の勤め先であった丸の内の広告制作会社に彼がレンタルフォトの貸し出しの営業にやってきたのである。僕は入社したてで、上司にうちの会社では使うことはないので断って来いと命じられ、受付へ行くとスーツ姿の彼が黒い鞄を持って待っていた。名刺交換を終えたあと、なにか妙に馬が合って、そのまま写真も見ないままに話し込んでしまった。たしか僕は卒業旅行でペルーを旅したときのことを話し、彼はジャズについて話していたような気がする。あっという間に時間がたち、一時間ほどしたころ、怒ってやってきた上司にすぐに戻って来いと叱られた。彼が、あわててレンタルフォトを見せようとしたのだが、僕は手で制し、そんなことより今日、会社が終わったらどこかで会って話の続きをしようと誘った。それが僕たちの付き合いのはじまりだった。そのうちに、もう一人仲間が加わり、将来の夢の実現に向けてみんなで貯金をしておこうということになって、郵便局で「中南米バナナ会社」という三人の口座を作った。これは、中南米のバナナを輸入する会社などではない。「中南米」は、どこか遠いところにある胸躍る世界、「バナナ」の方は、陽気さと自由を象徴する果実といった程度の観念的な意味しかない、冗談のようなものだ。名義についてうるさくなった今では考えられないことだが、当時はゆるく、そう説明すると郵便局員も面白がって通帳を作ってくれた。僕らは、学生気分の延長で世界を旅してまわり、漠然と心から面白いと信じられるものと出合いたかった。そして、自分で好きな表現をするような仕事をやりたいと夢見ていたのであるが、結局、この口座は千円ずつ出し合ってそのまま消えてしまった。
 先に夢に向かって一歩踏み出したのは、堀内君の方だった。彼は、それから四年ほど経つと勤めていた会社に辞表を出し、突然、マダガスカルへ写真を撮りに行くのだと言った。思うように絵を描く時間を持つことができないまま、だんだんと会社に縛られていた僕は、それを聞いてうらやましかった。僕もどこか自由に放浪したいと思っていたのだ。そしてその二年後、僕も勤めていた会社を辞めることになった。彼と出会った頃に妄想した「中南米バナナ会社」が現実味を帯びてきたのである。
 東北育ちの彼は、マダガスカルへ旅立つ前に、まずは亜熱帯というものを体験しておくのだと、カメラを持って二週間ばかり西表島へ行き、熱帯での撮影に備えた。撮ってきた写真を見せてもらうと、マングローブの林や密林のなかの滝なんかが写っていた。彼はなにか自信を得た様子で、この撮影旅行を終えて間もなく、マダガスカルへと旅立っていった。携帯電話もなかったから、そのまま音信不通である。そして三か月後、帰国をしたと電話があり、撮ってきた写真を見せに僕の下宿にやって来たのだが、僕は、変わり果てた彼の姿に驚いた。色白で髪をきちんと分け、ネクタイを締めたスーツ姿のまじめなそうな好青年の面影はもうなかった。真っ黒に肌が焼け、目がぎょろりとしていた。なにか、原住民の霊がとり憑いたような様子で、恐ろしいくらいだった。一体、どういう旅をしてきたのかと尋ねると、どうやら、あちらでマダガスカル人の家を泊まり歩いていたらしい。見せられた写真も強烈だった。バオバブの森とそのそばの湖で魚を獲る人々、原色の布をまとった上半身の裸の男たち、牛に荷車を引かせ荷を運ぶ人々、フランスの植民地時代の美しい街の風景、見たことのない奇妙な料理、アフリカの黒人とはあきらかに違う帽子をかぶったお洒落な人たち。僕は、未知の国の世界に見入った。僕らは下宿の部屋を暗くして、窓のカーテンにスライド映写機で写真を大きく映し、一枚一枚鑑賞していたのだが、堀内君が朴訥と写真について語るのがまた、面白かった。夜、布団を敷いてやろうとすると、彼は「これでいいんです」と難民がよくするように布団を体に巻いて床板の上に横になるのだった。
 その後、彼は山小屋に泊まって鉄塔を建てるための測量をするアルバイト仕事などをやり、再びマダガスカルへ行くためのお金をためていた。そして、それから数年間、マダガスカルへ旅をしてはアルバイトをするという生活を繰り返し、行くたびに、半年、一年と滞在期間は長くなっていった。そんな生活を続けるなかで、帰国後にマラリアが発症して生死をさまようということもあった。僕は、一人で彼の写真を見るのが惜しくて、毎回彼が帰国するたびに友人たちに声をかけ、料理など作ってスライド上映会を催すようになった。
 独学で写真家としての仕事をはじめた彼の写真は、マダガスカルへ行くたびに、マダガスカル人たちの暮らしに深くカメラを向けて面白くなり、マダガスカル語も話せるようにあったおかげで、この国のメンタリティや価値観、暮しぶりなども詳しく話してくれるようになっていった。やがて、彼に誘われるうちに、どうにも自分も行ってみたくなり、僕は一九九八年に彼の六度目の渡航にスケッチブックをもって同行した。一か月半の旅であったが、夢のような愉快な旅だった。
 マレーシア、モーリシャスなどを経由して、飛行機を乗り継ぎ、マダガスカルに到着すると、空港からタクシーで街へ出た。バラックのような店が通りに軒を連ねていて、机の上に生肉の塊を横たえた肉屋の男がはたきでハエを追っている姿を見て、まるで絵本のなかに迷いこんできたようだと思ったことを強烈に記憶している。宿に荷をおろすと、堀内君とさっそく食事をとりに食堂へ行った。僕はまったく分からないので彼に注文をまかせると、たしか鶏のから揚げと、コシのないふわふわした麺のようなものが浮いた中華そばのような生ぬるいスープ、それに皿に山盛りのめしが出てきた。楽しみにしていたし、腹も減っていたから、僕は待ちきれない思いで、このめしをスプーンですくって口に入れた。ところが、なにか腐ったような臭いがしているうえ、小石が混ざって歯が欠けそうになった。僕がげんなりしている横で、堀内君は、どうしましたか、というふうな顔をして、うまそうにむしゃむしゃとたいらげている。すっかり現地に溶け込んでいるのだなと思ったが、僕は、この先どうなるのだろうと、到着早々に意気消沈してしまった。しかし、堀内君は僕が正直に食事についての感想を告げると気の毒に思ったのだろう、次から少し上等なレストランへ案内してくれるようになった。そこで食べた、たしかル―マザーヴァとかいう、牛と豚の肉を煮込んだスープや、アクールーニという鶏肉と生姜のスープ、それから何という名だったろう、ぶつ切りの豚肉と潰したマニオクの葉を煮込んだ料理などは今も忘れられない味で、はるばるやってきてよかったと思った。めしも新鮮で、もう臭くはないどころか、炭火で炊いているせいか、とてもうまかった。ただ、相変わらず小石は混っていて、僕はそのあと日本に帰ってからもしばらく、めしに小石が混っているような気がしてならず、用心深く食べるようになった。フランスの植民地時代の食習慣であろう、葡萄酒やパンもあり、食後にはかならずデザートをすすめられた。マンゴーやパパイヤなどの水菓子や、クレームブリュレやヨーグルト、バナナフランベなどがでてきたのだが、これもうまかった。この旅で僕は目にするものすべて描きたくなって、体がついていくのが大変なほどであった。そして、その八年後にも、再び彼のマダガスカル取材に同行した。
 僕は彼のマダガスカルでの活動をもっとたくさんの人に知ってもらいたくて、二〇〇三年、自分が発行する同人誌「四月と十月」に彼の取材記事を書いた。このとき彼は、もう十一回もマダガスカルへ旅をしていて、写真雑誌などで作品を発表したりするようになっていた。あらためて写真家としての活動についてやマダガスカルの魅力について聞いてみたのだが、今読み返してみても、そのとき語っていた彼の言葉は、実に魅力的である。
 「マダガスカル人にとっても死は悲しいものですが、亡くなってからも、みんなその人のことを覚えている。体はなくなっても魂は生きている。祖先から守られて生きている。日本では忘れられようとしている感覚に出会いました。マダガスカル人の顔が好きなんですが、写真に写る彼らの表情に威厳があり、魅力をたたえているのは、このことと関係あるんじゃないかな。彼らの暮らしの総体が、その表情をつくっているのだと思います」
 もう十三年も前のインタビューの記事だが、すでにこのとき、今後のテーマとして北上川流域の暮らしを追いたいと語っていたことに驚かされる。堀内君は、マダガスカルに憑かれたように通いながらも、日本の身近な暮らしに目を向けはじめていたのだった。
 その後、僕は港の人と「四月と十月文庫」という単行本のシリーズを共同出版することになり、二〇一三年に彼の初めての著書となる『マダガスカルへ写真を撮りに行く』を刊行させてもらった。編集は、当時、朝日出版社にいた赤井茂樹さん。堀内君にマダガスカル語を教えた現東京大学副学長の森山工先生が、偶然にも赤井さんの学生時代の同級生だったということもあり、僕は赤井さんと酒場で飲むたびに、もし堀内君の本を作ることになったら編集をお願いしたいと思いを募らせていた。自分のことをあまり語りたがらない、ひかえめな性格の堀内君にとってこの本を書くのは大変なことだったはずだが、とてもいい本になった。自ら企画したもので言うのも憚られるが、僕は、名著中の名著だと思っている。本が完成すると、出版記念会や書店でのスライドトークなど企画してお披露目につとめていたのであるが、あるとき、堀内誠一さんの長女の堀内花子さんが絶賛して、伝手のある福音館書店に絵本としての企画を出してくださった。これは、うれしかった。ちなみに、堀内君と堀内花子さんは、親類というわけではなく、他人同士。そして、この企画書が、同社の編集者である北森芳徳さんの目にとまって、「たくさんのふしぎ」という月刊絵本のシリーズで『マダガスカルのバオバブ』という絵本を作ることになった。さまざまなバオバブの木と、この木をめぐるマダガスカル人たちの暮らしを紹介した写真絵本だ。そして、その後もう一冊、『青い海をかけるカヌー』という、マダガスカルの海洋民ヴェズ族たちが、今も丸太から帆船を作り、漁や運搬、旅をする暮しを描いた写真絵本も出すことになった。
 今回の北上川のヨシ原の絵本は、そのシリーズ三冊目として作られたもので、編集は同じく北森芳徳さん。彼が初めてマダガスカルから離れて、郷里のことをテーマに書いた絵本だ。
 先週、出来上がったばかりのこの本をめくりながら、この、一見、日本の田舎ならどこにでもありそうな身近な景色を撮るまでに、彼がどれほど旅を重ねてきたことか、ということに思いを馳せていた。僕は、写真といわず、友情といわず、出会ってからずっと、彼の夢が将来どうなっていくのだろうと楽しみに見つめてきたように思う。このヨシ原の写真の向こう側には、彼の「マダガスカル」があるのだ。
 そんな思いにしみじみひたっていたら、ふと、彼の結婚式の日のことまで思い出してきた。なにかに憑かれたようにたびたびマダガスカルへ通うので、僕は、もしかしたらマダガスカルに恋人がいるんじゃないのか、いつかあちらに移住するつもりなのかと聞いたことがあった。なにしろ堀内君ときたら、女の話は一切口にしないのだ。そのときも笑ってかわすので、僕は、もしかしたら、と思っていた。ところが、お相手は文化人類学の研究をしていた日本人女性だった。調査のために訪れたマダガスカル東海岸の町で七年に一度行われる祭りで出会い、やがて恋が芽生えたとのこと。まるで、映画のような本当の話。僕は、なぜかほっとした。あるとき、そろそろお式が近いはずだが披露宴の案内も来ないなと心配になって電話をかけてみると、なんと家族と親戚だけで行うことにしたのだという。普通なら、それならそれでお祝いでも送るかとなるはずだが、そのとき僕はどうしても式に出たくて、無理を言って参列させてもらうことになった。塩釜神社で、巫女の舞などあり、実に厳かなお式だったが、親族以外は僕ひとり。そのあと広いお座敷に左右に分かれてお膳が並ぶなかで、友人代表みたいな挨拶をさせていただいたのだが、今思えば、なんとずうずうしいことをしてしまったのかと恥ずかしくなる。ただ、そのとき僕は、旅ばかり続けて父の葬儀にも出られず、親類から責めを受けているという彼が、マダガスカルでどれほど魅力的な活動をしているかということを伝えたかったのだ。でも、まぁ、それとて余計なおせっかいである。後にも先にも、招かれもしない結婚式に行くなどというのはもうこれっきりである。
 このあいだ堀内君に、中南米バナナ会社の三十五周年の活動を祝して、北上川でキャンプをして、のんびりスズキでも釣ろうと話をした。昔、家でスズキを丸ごと一匹、野菜と一緒に煮てバターソースをかける料理を作ったことがあるが、これはうまい。焚火をして鍋をかけ、そんな料理やシジミ飯を食べながら夜を過ごすのは、どんなにいいだろう。

 (1月25日月曜日)

月金帳60 たくさんのふしぎ


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