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第203回往復書簡

牧野伊三夫 →  石田千さんへ

 アトリエにストーヴを出して、短パンと半袖シャツをしまい、長袖とセーターを出して仕事着の衣がえをする。仕事着はどれもお古ばかりで、奮発して買ったコム・デ・ギャルソンのシャツも絵具まみれである。セーターは昔アイルランドのラフロイグ蒸留所で買ったラムウールのものだが、両肘が破れたのであてで繕い、それがまた破れてしまって、切るときに手先が肘から出る。お腹のあたりにも、ほつれて穴がいくつも空いていて、ただのボロ布のようになっているのであるが、まだ着るとあたたかい。それに、長年きているので、これを着ると落ち着いて絵筆がとれる。ズボンは、これもよそ行き用にと買ったブルックス・ブラザースだが、絵具まみれでペンキ屋の作業着のようになっている。でも、ペンキ屋よりは色数が多く濃淡も豊かである。
 昔パリへ行ったときに、夕方路地裏のカフェで食事をしていると、絵の具まみれの無口な男が大きな犬を連れて入ってきて、カウンターに腰かけて犬に餌をやりながらなにか飲んでいた。髪はぼさぼさで、目はうつろでやつれた表情をしており、画家にちがいないと思った。きっと近所にアトリエがあって、さきほどまで絵を描いていたのだろう。僕は、かっこいいなと思って、しばらく盗み見をするようにちらちらと見ていた。それをまねて何度か近所の傾いたような家のもつ焼きへ、着替えもせず絵具まみれのまま飲みに行ったことがある。表通りでない、こういう、路地裏の、街の陰のような場所でボロを着て行ける店が、一日霞を食うようにすごした者には心地がよいのである。
  (11月14日火曜日)

ピアノを弾くハルカ・ナカムラ(スケッチ 牛窓中学校体育館にて 2023年11月7日)

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