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第120回往復書簡 へんてこバレンタイン・ふたたび  第3回

石田千 →  牧野伊三夫さんへ

 おおきなテーブルには、ピンクのクロスがかけてある。まんなかには、ばらのアレンジメント。おやつにバナナココアをのんだときには、飾ってなかった。無事に届いて、よかった。
 手を洗って、アルコールをつけて、ななめの位置にむかいあう。大ちゃんは、ロゼのシャンパーニュをあけた。みぎの腕だけアクリル板をのりこえて、ついでくれた。
 ……バレンタイン、おめでとうございます。
 チンと鳴らして、ひとくち。グラスを置いて、ひと呼吸。そうして、泣きべそ寸前の、ちいさな声をきく。
 ……よしのさん、ほんとうに、わたしで、いいんですか。
 肩からつむじに、血液が急上昇するのがわかった。
 ……いいいーんです。
 瞬時に、毎週金曜日のジョン・カビラさんより、でっかい声で答えていた。きっと、目じりもつりあがっていた。1分たらずで、結論が出た。人生の大決断に、じっくり話を聞くなんて余裕は、ないものだった。それにしても、大ちゃんは、2か月近く考えて、このひとことだったのね。正直なことばだったから、許すことにした。
 ……ありがとううううう。よっちゃん、ほんとに、ありがとううううう。
 大ちゃんは、ピンクの桜もようの手ぬぐいに顔をうずめて、シャンパーニュの泡が消えるまで、さめざめと泣いた。
 くせっ毛で、おなかぽよんぽよんで、泣き虫で。大ちゃん、いや、近い将来のだんなさんは、やっぱりかわいい。
 ……それで、具体的には、どうするの。まだおなかすいてないから、酔うまえに教えて。
 ようやく泣きやんで、鼻をかんで、顔を洗って、手を洗って、アルコールをつけて、テーブルにもどってくるなり、ごめんねといった。
 ……よっちゃん、ごめんなさい。あのプランのひとつを、撤回させてください。東京をはなれて、よっちゃんの地元で、港で、ビストロやる。よっちゃん、仕事のこと、迷惑かけるけど、全力で協力するから。どうか、どうか。
 また、涙声になった。
 ……わたしに、ついてきてくださいいいううう。
 あー、また、鼻かんで、顔洗って、手洗って、アルコールだ。
 めんどくさい、じぶんでつごう。ボトルに腕をのばすと、さっき触ったから、だめといわれた。飲食業界のひとは、徹底しているものだなあ。泣いてても、えらいもんだなあ。こんなときに、みょうな感心をした。
 ……わかりました。やめるにしても、引継ぎとかいろいろあるから、いっしょに引越せないかもしれないけど。明日、部長にはなして相談する。
 内装とか、物件さがしは、朝雄おじさんに相談するといいと思うよ。いとこの道夫ちゃんのお嫁さんは、漁協に勤めてるから、あのへんのことは、くわしいと思うしね。
 大ちゃんは、ひとまず拠点とするアパートを、すでに中町商店街に借りることにしていた。さっきまでの、もやもや考えた時間は、なんだったのかと思うほど、さくさくと動きはじめたのだった。
 ……よっちゃん、帰って、むこうでやりたいこと、働きたいこと、見つけられるかな。それがいちばん、心配。
 ……わかんないなあ、ハローワークに通ってみるかなあ。でも、実家が、住むところがあるから、まあ、なんとかなるよ。
 声にして、ようやくわかった。まあ、なんとかなるよ。熟考した結論は、これだったんだ。
 ようやく、ななめむかいどうしの肩が落ちついた。大ちゃんが、おかわりをついでくれた。
 ……よっちゃん、ありがとう。わたしと、結婚しましょう。
 ……はい、うかつものですが、よろしくお願いします。
 かんぱーい。ロゼのワインは、甘くなくて、ドライで、きもちがいい。
 それから、母に電話をした。スマホにすっかりなれた母は、まあまあ、うれしいこと。おめでとう。大輔さん、ふつつかな娘ですが、よろしくね。それから、いつ帰るのか、どこに住むのかと、30分質問攻めにあったけど、いちばんうれしいのは、大ちゃんがさきに越していくことのようだった。いろいろ案内するからね。ひときわ声が弾んた。
 うちの父は、3年まえに亡くなった。大ちゃんのご両親は、地元で洋食やさんをされていたけど、知り合うまえに、おふたりとも亡くなられていた。
 ……大ちゃん、日田のおじさんにお電話しよう。落ち着いたら、お墓参りにいきますって、いって。
 電話をすると、おじさんおばさん、ふたりとも、お元気そうで、とてもとても喜んでくださった。
 ……よしのさん、大輔ね、あんやつぁ、泣き虫ですぐ泣きよるけど、正直で、がまだす男なきね。よろしくお願いしますね。
 画面のなかのおじさんも、泣いていた。遺伝なんだなあ。
 電話がおわった。
 ……がまだすって、なに。
 ……がんばるってこと。
 はい、それじゃあ、大ちゃん、がまだして、バレンタインのディナーを、お願いします。
 ……かしこまりました。
 立ちあがって、おなかにエプロンを巻きつけた。
 結婚パーティー、じぶんの店でやるのが夢だったんだ。日田のおじさんおばさんも、来られるといいなあ。みんなで集まれるようになるといいねえ。
 これから、たのしみだねえ。
 ひと皿めは、あたたかなビーツのポタージュだった。
 大ちゃん渾身の、それはそれは愛らしいピンクのスープだった。
 大ちゃんは、スープのお皿を置いて、照れながらいった。
 ……よっちゃん、ごはん食べたら、手をつなごう。
 そうだね。ずっと、ほんとうにずっと、指一本、触れていないんだもんね。
 うわーん、うおーん。いきなり泣けてしまった。さっきの大ちゃんより、いっぱい泣いた。そうして、うちのシェフは、せっかく完璧だったスープを、あたためなおすことになってしまった。                   おしまい

 (3月11日金曜日)


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