第116回往復書簡 へんてこバレンタイン・ふたたび 第1回
石田千 → 牧野伊三夫さんへ
如月ついたち、出勤まえに、廊下のカレンダーをめくる。新年は、子犬と鏡餅の絵だったんだなあ。ながめた記憶が、まるでなかった。
クリスマスイブの晩いらい、おとなりの大ちゃんと、ぎくしゃくしたまま年を越した。大ちゃんからの提案は、バレンタインデーまでに考えて、お返事します。大ちゃんも、このままおとなりさんでいるのか、もっと近いふたりになるのか、それまで考えてみて。
棚上げの返事をしてから、大ちゃんは、びくびく、おびえた目でいる。大晦日も、元旦も、ベランダでおいしいごはんをたべたけど、やっぱりびくびくしていた。
毎日会えるようになったのに、まずいなあ。そうして迎えた寅年元旦の朝、いきなりことが起きた。
うちの洗濯機から、水が出なくなってしまった。あろうことかの、元旦。
大ちゃーん、助けてくださいー。まだ寝ていたところを起こして、知り合いの水道やさんに連絡してもらった。元旦だというのに、お昼にはきてくださった。
いろいろ見てくださったけど、水道は大丈夫だった。洗濯機の故障とわかって、ふたりで平謝りをした。それから通販で、いちばん早く届く洗濯機をみると、最短が6日だった。そのあいだは、大ちゃんの洗濯機を借りることになった。
洗濯ものをもって行き来するうちに、おたがいの部屋でふつうに動けるようになった。どんなときにも、いいことはひとつある。
……ベランダの壁を抜いておいて、よかったなあ。大ちゃん、ありがとう。
そういうと、ほんとうにひさしぶりに、ほっとしたように笑ってくれた。
ところが、第2弾のことがおきたのは、七草の朝だった。あたらしい洗濯機は、機嫌よく働いてくれていた。
ベランダつつぬけだと、洗たくを干すのも、つつぬけなんだよなあ。
それまでだって、大ちゃんの部屋に着替えはおいていたけど、パンツもブラジャーも見せているけど、毎日のものを干すのはやっぱりちがう。下着は、外からも、大ちゃんからも見えないように気を使わないとね。ぱんぱんとひろげて、ぱちんと干していたら、大ちゃんがいきおいよくベランダに出てきた。
……よっちゃんの部屋、洗濯排水、だいじょうぶか見てきて。うち、いま、あふれてきちゃったんだ。
こんどは、大ちゃんの部屋の洗濯の排水口がつまった。またお昼すぎに、水道やさんに来ていただいて、こんどは、1時間かけて直していただいた。
新年早々、水難つづきだねえ。ふたりして、うなだれて、パスタを食べた。そうして、あんがい信心深い大ちゃんが、ふた部屋とも、おさけとお塩で、清めてくれた。
長くいただけたお正月休みは、それで終わってしまった。それでも、あの災いが、かすがいになった。おたがいに、クリスマスの返事はいわないけど、だいだいもとどおりに話せるようになったし、夜ごはんは、ベランダじゃなくて、大ちゃんの部屋のおおきなテーブルでいただけるようになった。
いってきまーす。壁ごしに、ちいさい声で大ちゃんによびかける。
バレンタインまでの宿題はあるけど、会社から帰って、おとなりから、晩ごはんのいい匂いがする幸せをたのしむ。ありがとう、大ちゃん。
ほんとうは、いまごろは小伝馬町のタツヤ君のお店で、夜のお食事を作るはずだったのに、感染がきゅうにひろがって、延期になっている。大ちゃんは、もっともっと考えることがある。
今月の絵は、赤鬼さまと、お多福さま。
ふたりして、よくよく考えて暮らします。カレンダーに手をあわせて、ドアをあける。
(2月8日火曜日)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?