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第134回往復書簡 おまじない、9時30分

石田千 →  牧野伊三夫さんへ

 おかげさまで、54歳の誕生日を迎えた。落ち着くどころか、日々ますます、せわしなく動いている。
 運転免許の更新、脳のMRI、上野に用事。毎週、びくびくしながら地下鉄に乗った。遠出するわけでもないのに、帽子を深くかぶって、ビニール手袋をはめて、ひょろひょろ乗り込む。車内のひとたちは、なにもなかったように、以前のまんまで、手袋がはずかしくなるけど、はずせない。
 上野に出た日は、夏日だった。駅に着いたら、早足で用事をすませて、あたらしい手袋をはめて、また地下鉄に乗る。通っていた喫茶店も、松坂屋の地下も寄らなかった。
 これで、しばらく地下鉄には乗らない。家に帰って、ほっとして、風呂あがりにビールをのんで、食事をして、洗濯を干し終えたら、吐いた。11時をまわっていた。
 吐くほどは、飲んでいない。胃腸なら、いい。病気のある脳だと、困る。
 片足で立てるか、両腕はあがるか、指は動くか、顔はゆがんでいないか。鏡のまえで試して、できたので、ほっとした。胃薬を飲んで、寝た。
 翌朝は、久しぶりにお粥を炊いた。昼には、食欲ももどった。よかった。
 熱中症を気にして、水をたくさん飲んで出たのが、逆効果だったのかもしれない。七転び八起つづきのこの数年、まだまだ失敗があるもので、うなだれた。
 夕方、母に電話をして、ことの次第をはなし、夜中にひとを騒がせずにすんでよかったといった。母は、ふうーんときいてくれた。
……あんまり、よけいな心配、しねもんだ。
 さいごに、そういった。
 そうなんだ。いまの生活のほとんどが、よけいな心配のうえになりたっている。母には、いつも、なんどもいわれてきたけど、その日はすとんと身にはいった。
 よけいな心配、しねもんだ。
 声に出すと、すこし元気がでる。
 毎朝スクワットとストレッチが終わったら、深呼吸をして、空を見あげて、おおきな声で唱えている。

  夏痩せや余計な心配しねもんだ   金町
  (6月15日水曜日)

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