第88回往復書簡 上空、12時46分
石田千 → 牧野伊三夫さんへ
洗たくものをたたんでいて、おおきな音にふりかえる。マンションのベランダ、ビルの屋上で、みんな空をみあげて、スマートフォンをかかげている。ビルをぬって、三角の飛行機がみっつ、しろい煙をのばして、あっというまにすぎた。
12時46分ごろ、ブルーインパルスが飛ぶそうです。さっきラジオできいていて、そのまま忘れていた。きょうは、オリンピックの開会式で、ブルーインパルスも行事のひとつだった。
火曜日の朝、ベランダに水やりに出たとき、ツブカが一匹、部屋にはいった。
蜂には、ものすごく気をつけていた。そのすきをつかれてしまった。
ハエと蚊は、いちどはいると、なかなか出ていってくれない。ことに、ツブカは手ごわい。
子どものころからなじみの蚊は、しましまだったり、足が長かったり、ふわーんときて、ブーンと羽音もする。見つけて、ぱちんと叩くのは、そんなにむずかしくない。叩いて、血が出ると、なんだか満足する。人間の仇討ちという心情は、蚊との闘いが起源かもしれない。
ツブカがあらわれたのは、そんなにむかしのことではない。気がついたのは、おとなになってから。すれちがいざまに刺されてかゆい。そんなのが増えて、かゆいと思った瞬間に、首すじをたたいた。手のひらに、血を吸った虫がくっついた。ものすごくちいさい。くろくて、こしょうをガリガリひいたときのひとつぶみたい。ほんとの名まえがわからないから、ツブカと呼んでいる。
動けば、すっと近づいてくる。はらえば、ひゅっと消える。ただでさえ、飛蚊症なのに、ほんものもまざって、視界もわずらわしい。
ぼんやりしたおばちゃんは、じつは手ごわい敵だった。一日じゅう冷房に入っているから、腕は長袖、足はハイソックス、首には手ぬぐいを巻いている。刺せるのは、顔と、手しかない。寝るまえに、蚊のいなくなるスプレーをしたから、火曜日は、刺されずにすんだ。
翌朝、水曜日。いなくなっているはずのツブカは、起きるなり流しにあらわれた。スピードも落ちていない。この日は、40平米の密室に、ひとりと一匹の攻防がつづいた。ひとごとならば、刺さず刺されず、よい試合。
そうして、きのう。
さすがに、ツブカも、おなかがすいた。スピードは変わらないけど、どこにでもついてくる。台所、トイレ、左に動けば、ちゃんと左についてくる。ささなければ、かわいいのに。ひとのほうは、三食睡眠たっぷりだから、スタミナも落ちていない。
ここまできたら、ぜったいに、刺させない。
気をぬかず、夕方まですごし、風呂をたいて、全裸になった。
そのとき。
すこし、ふんわりついてきた。弱ったな。ばちん、つかまらない。ぺちん、逃げられた。10回もやったところで、ツブカが鏡にくっついて休んだ。
いまだ。
とうとう、しとめた。
三日間の戦いに、勝った。血もつかなかった。
戦いすんで、日が暮れて。はだかでひとり、さびしくなった。
手を洗って、ツブカのくっついた鏡を洗った。まっくろだったのに、茶にちかくなっていた。
湯ぶねにつかって、お釈迦さまの道は、ほどとおいなあ。刺さなかったのは、いろんな薬をのんで、血がおいしくないからかも、しれないなあ。そして、宮本武蔵は、巌流島のあと、さぞかしむなしかった。
ブルーインパルスの描いた煙は、すぐに消えた。
ひとが、ツブカくらいちいさい飛行体を作れるようになるのは、そんなに遠いことではない。
ビールつぎ殺したツブカに献杯す 金町
(7月23日金曜日)
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