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第130回往復書簡 筋トレ、20時38分

 石田千 →  牧野伊三夫さんへ

 風呂あがる。化粧水、クリーム。ふと、鏡と目があって、思い出して、やって、大ショック。
 アナゴさん、できなくなっちゃった。
 サザエさんのだんなさんのマスオさんの同僚、唇がぶあつくて、低い声と、スーツがダンディなアナゴさん。
 小学校のころから、おじさん好みだったわけではないけど、下唇をひっくりかえし、そのうえに舌を出すと、ぶあつい、アナゴさんの唇になる。アナゴさんは、あんまりセリフがないので、ものまねも練習してみた。学校で見た腹話術を参考にして、おーいフグター。低い声でもごもごいうと、なんとなくそう聞こえるようになった。こどものころから、ばかばかしいことだったら、飽きず、まじめに練習をくりかえすことができた。
 そのおかげで、おとなになってからは、アグネス・チャンさんのものまねと、アナゴさんの一発芸で、世の宴席を渡ってきた。酔っぱらって、披露して、苦笑されてきた。
 それなのに、アナゴさんの要、下唇がひっくりかえらなくなっている。一大事に、全裸で動揺した。
 ひとに会わない、外出が減った、あちこちの筋肉も萎えたと自覚はあったけど、まさかこんなところまでとは思わなかった。それでも、よく考えれば、マスクで隠して、おしゃべりをしない、笑わない、歌わない。口まわりの筋肉は、なにより使わなくなっていた。
 夕食のしたくをしながら、なんども試して、できない。こまった。
 ビールをのんで、食事をはじめたら、30回めで、ひっくりかえった。
そうそう、そうだよ。思い出しておくれ。トイレで、ふとんで、くりかえし、だいぶ確率があがってきて、ほっとして、寝られた。
 ラジオ体操ができなくなったかわりに、毎朝30回スクワットをしている。寝るとき、起きるときには、10分ストレッチもしている。それで、なんとか日々をしのいでいると思っていたら、顔がとりのこされていた。おそろしいことだった。
 アナゴさんのおかげで、気がつくことができて、よかったなあ。芸は、身を助けるんだなあ。
 このぶんだと、みんなに会えるようになった日、たのしく話して、笑って帰った翌日には、顔じゅう筋肉痛になる。顔の筋肉痛は、経験したことがない。  
 それも、おたのしみのひとつと、心づもりをしておきます。
 牧野さんの十八番のゴンドラの唄は、なんどか拝聴いたしましたね。一発芸は、どうでしょう。ありますか。

  スクワットしゃがんでのびて五月晴れ  金町

  (5月11日水曜日)

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