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第139回往復書簡 西馬音内のひやがけ蕎麦

牧野伊三夫 →  石田千さんへ

 今月の初め、北海道からの帰りに、妻の秋田の実家で二三日過ごして東京に戻る予定だった。ところが、ここで昼寝するのが気持ちよく、もう一日、もう一日と延泊しているうちに、二週間もたってしまった。自然と夏休みになり、ながらく家をあけているせいで、8オンスの平出さんが送ったスイカがこちらに転送されてきた。
 「スイカの種を食べてしまうと、へそから芽が出るので注意してください」
 手紙にそう書いてある。
 昼寝をして、夕方から義父を相手に毎晩大酒を飲むが、毎日早起きをして、朝五時から散歩に出る。朝霧がたなびく山の中の田んぼの畦道を歩いていくと、村の入り口の道端に、鹿島様という大きな藁人形が祀られている。疫病除けのためのものであるが、これが実に愉快な形をしている。頭には二本の角があり、パイプ煙草をくわえ、肩からポシェットをさげ、腰に締め縄をまき、なにより目立つのは、股に足の何倍もある巨大な男根が勃起している様子だ。これは稲作の豊作祈願ではないだろうか。毎年七月半ばに、この鹿島様のお祭りがあるらしく、二日前に散歩に行ったとき、古いものがそばの畦道で焼かれて建屋に新しい藁人形が祀られていた。
 畳のうえで涼しい風にふかれ、目をつむり、蝉の声をきいているだけだが、僕には十分満足な夏休みである。このあいだは、昼寝のあとに近くの温泉へ行き、お湯のなかからボンヤリ外の草むらの景色を目でデッサンして帰り、水彩画を一枚描いた。
 秋田の県南に西馬音内という盆踊りが有名な集落があって、ここに、ひやがけ蕎麦という、冷たいかけ蕎麦を食わせる店が何軒もあるということが気になっていた。どこも人気で、十一時の開店前にはすでに行列ができて、売切れると店じまいするらしく、以前午後三時すぎに行ったときはどこも閉店していた。それで先日、朝食をいつもより軽めにし、気合を入れて食べ歩きに出かけて行ったが、三軒まわったところで腹いっぱいになり、もう食べられなくなった。晩酌にもさしつかえるほどで、馬鹿な食べ方をしてしまったと苦笑したが、「小太郎」という店が、僕は一等好きだった。ここでは、ひやがけ蕎麦と、かけ中華という、丼ぶりの麺を食べた。どちらも冷たい麺に出汁をかけて出てくるが、濃いめの出汁に硬い細麺がからんで、やたらとうまかった。ひやがけ蕎麦は麺のうえに葱だけ、かけ中華の方は葱と紅生姜だけしかのっていない。これは、麺と出汁によほど自信がないとできないことだろう。   
 翌日も、西馬音内へひやがけ蕎麦を食べに行く。この日は「信太」という店に入り、ひやがけ蕎麦に、小さな天丼をつけてもらった。ごつごつした冷たいそばをすすり、たれのしみた天ぷら飯をかきこむと、そのうまさに、久しぶりに鼻が鳴る。ああ~、うまかったなと蕎麦湯で一服していると、向かいに座っていた大柄の男が、これと同じ組み合わせに、さらにあたたかい中華そばも付けて、むしゃむしゃかき込みはじめた。
 「よく食べますねぇ~」
 思わず僕は声をかけてしまったが、男は麺をほおばったまま、チラッとこちらを見て笑っただけで、箸を止めない。うまいか。うまいだろう………。
 実はこの店の、大きな麩と白い柔らかなチャーシューをのせた中華そばは、大変評判がよいらしく、見回してみると、あたらこちらの席で食べている人がいるではないか。よし、俺も食うぞ、我慢できなくなり、店の人と目を合わせて手をあげかけたのだが、前日の満腹の苦しみを思い出してその手を下げる。
 さてさて、今日あたり、また西馬音内に行ってみるかな。
 (7月18日月曜日)

鹿島様
夏の景色 2022年


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