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第219回往復書簡 自画像

牧野伊三夫 →  石田千さんへ

 絵描き仲間たちと年に二回、四月と十月に発行している美術同人誌が、この春、刊行二十五周年の節目を迎えた。僕はこの本を創刊して、編集発行人をつとめてきた。一時期、千さんも同人だったことがある。これまでずっと掲載する絵も文章も自由なテーマだったが、節目の号というので、創刊以来はじめて、絵の方は「自画像」、文章の方は「私の絵が生まれるとき」というテーマを設けた。なぜ自画像をテーマとしたかというと、先行き不透明な時代に、ここで一度みんなで自分をみつめて未来へ向かおうという思いがあった。画家は転機のときに自画像を描くのだと言う美術評論家もいる。
 ところが、この自画像というのは、なかなかむずかしい。そもそも自分の顔を描いて、人の目にさらすという行為自体、気恥ずかしいものである。みんなずいぶんと困っていたようである。
 なぜか。普段は獣に向けている銃口を自分に向けるような恐怖があるからか。いやちがう。自画像を描くためには、自分を客観的に眺めて、自己分析をしなければならないからである。「私」が何かを感じて描くという、ふだん描くときの表現のルーティン自体をとりあげられてしまうからである。絵を描くということが、自分と他者との対話であるとしたら、その一方の他者が消え、ただただ独りごとを繰り返すようなことになる。自分と自分という構図のなかで描くのは、つまり、独房に放り込まれるようなものである。まず、これに、まいってしまう。もちろん何も考えずに鏡を眺め、ただ素直に姿形を追って描くだけでもよい。だが、作品として何かを表現するとなると、なかなかむずかしい。
 この号は、同人たちの自画像に取り組むとまどい、あるいは、悲鳴のようなものが聞こえてくる。企画した僕自身、苦しんだあげく、自分のことを客観的に見つめ、分析して表現するというところまで到らなかった。このことは、自分を描いて人の目にさらす、ということよりも、絵描きとして恥ずかしいことである。なんとも情けなく、絵筆を折ってしまいたい心境である。が、こんな未熟な自分を知ることができたことは、よかった。
  (4月1日月曜日)

美術同人誌『四月と十月』50号 2024年4月1日発行/表紙画は同人の鈴木安一郎


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