見出し画像

第51回往復書簡 0点

牧野伊三夫 → 石田千さんへ
 
 千さんから、ライバルは誰かと言われたが、僕にはそもそもライバルなどという考えがない。子供の頃から、誰かと比較されたり、競争して勝つとか負けるとかに執着することが嫌だった。絵を描くようになってからは、ますますそうしたことがどうでもよくなって、まったく興味がなくなった。
 高校時代に、進学のための点取り競争にうんざりして0点をとったことがある。数学の試験だったが、僕は三枚渡された解答用紙に丁寧に名前だけ書いて、試験の間、机で伏せて寝ていた。それをそのまま提出したところ、「バカヤロー!」と言わんばかりに大きくバツが描かれた0点の答案用紙が戻ってきた。答案用紙のはじめの方には、授業を聞いて教科書を読めば勉強をしていなくても誰でも答えられるような、いわゆる点取らせ問題が設けられていて、さすがになまけ者の僕にも答えが分かったが、終わりの方の応用問題は解けそうになく出来そうなところをすべて解答してもせいぜい六十点か七十点。そんなことがわかって、僕は、ここは0点を目指そうと決めたのである。0点をとったのはそのときが初めてで、その美しさに感動した僕はその答案用紙を同級生に見せびらかしたり、同じ高校に通った父に「0点は取ったことないでしょう」などと自慢したりして、ながらく勉強部屋に貼って眺めていた。
 数学は好きだったが、試験のたびに優秀な者から点数を書いて廊下に貼り出し、生徒たちを鼓舞するやり方が実に面白くなかったのである。僕は、自分が何点とろうが勝手なことと思っていたのであるが、後日、学年主任に職員室に呼び出されて、担任、数学教師に囲まれ、なぜ白紙のまま提出したのかときつく問いただされることになった。
 「(数学の)原田先生は、これまで長い教師生活のなかで、0点を出したのははじめてだとおっしゃって、自分の教え方がよくなかったのではないかと肩を落とされている。」
 学年主任と担任に恐い顔でそう言われて、僕は少々びびりながらも正直に、
 「ただ、0点が欲しかったのです」
 と伝えたのだが、単なる反抗的な態度ととられ、最後まで理解してもらえなかった。学校側の対応としては当然のことだろう。あんなに美しい答案用紙はなかったのだけどな。
 僕がやっている美術の世界は、名声とか、売れるとか、俗の人はヤジウマするが、そういうことは絵を描くこととはまったく関係のないことである。美術評論などで、そうした観点から画家を語っているのを読むとがっかりする。画家を主人公にした映画でもろくなものはない。ただ、一作、ビクトル・エリセ監督の「マルメロの陽光」だけは好きだった。どうであろうと絵描きは、ただ愚かしく、いい絵を描いておればそれでいいのである。
 ライバルというのとは少し違うと思うが、絵を描くうえで、これまで多くの画家たちに影響を受けてきた。いい画家の作品をみることは、もともと描くことより鑑賞することの方が好きな自分にとってなによりうれしいことなのであるが、そのあと、もれなく自分の仕事の未熟さを嘆かねばならぬという苦悩もついてきた。
 若い頃はピエール・デッラ・フランチェスカやボッティチェリなどの古典から、セザンヌやカンディンスキー、ムンク、ヨーゼフ・ボイスなど、近現代のヨーロッパの美術家にばかり目を向けていた。しかし、二十六歳で会社勤めをやめて画家になろうと決めた頃から、明治から昭和初期に画壇で活躍した山口薫や坂本繁二郎、川崎小虎、小野竹喬、木村荘八といった日本の画家たちに強く興味を持ち始め、画家たちの書いた本を手当たり次第読むようになった。そのなかに、岡本太郎の『今日の芸術』があった。この本は、言葉にして説明することの難しい芸術について、子供が読んでも理解できるように書かれている。あまりに面白いので読み終えるのが惜しくて大事にゆっくりと読んだが、「芸術は美しくあってはならない。いやったらしくなくてはいけない」と、当時目を開かされた言葉が五十代半ばになったいまでも心に残って、岡本太郎を感じている。もう一冊、山口薫の『歳月の記録』も繰り返し読んだ。そこにあった山口の、「消すことがデッサンか、描くことがデッサンか」「俺は俺の絵がわからなくなった」「涙を流しながら描いてもいい」といったアトリエでのつぶやきも、たびたび心に蘇ってくる。僕は、ときどき山口薫がやっていたのを真似、机に湯呑茶碗をふたつ並べて一方に緑茶、もう一方に安ウィスキーをそそいで交互に飲んでみる。
 仮にライバルというのを、自分が絵を描くうえでの、ひとつの心のよすがとするならば、僕はボナールや山口薫、岡本太郎であろうか。その誰とも会ったことはないが、いつでも僕の心のなかにいて、身近に思う人たちである。
 もう二十年も昔のことだが、サン・アドで同僚だった井上庸子さんにうながされて、青山の岡本太郎記念館の敷地内にある「a piece of cake」というカフェの壁で絵の展示をしたことがあった。それが縁で店のオーナーであるお菓子研究家の大川雅子さんに誘われて、岡本敏子さんと四ツ谷にあった済南賓館に行った。岡本太郎がひいきにしていた店で、そこで太郎が好んで飲んだというパイカル酒をのんだが、敏子さんは食事の間、ずっと太郎の話ばかりしていた。
 「あんな素敵な人、いないわよ」
 敏子さんは太郎が吉原に遊びに行くのにも同行して、待合の応接間で遊女たちと話をして待っていたそうである。僕は、そんな深く愛し合った話にひどく刺激されて、その晩、食事のあとに大川さんと同席していた編集者の中島富美子さんを誘ってタクシーをとばして一緒に渋谷のストリップ劇場へ行った。ストリップが見たかったわけではない。ただ、衝動的に何か破天荒なことがやりたくなったのだ。その晩はひどく泥酔した。そして翌朝、店でどうしても口にすることのできなかったサソリの姿揚げを鞄に入れて持ちかえったことを思い出した。
 大川さんからの連絡で、敏子さんの訃報を知ったのは、それからすぐのことだった。僕は葬儀へ行き、そこで敏子さんと太郎さんの写真集をいただいて、中の一枚、おそらく海外へ旅立つところであろう、ふたりが並んで写った写真を切り抜いて額装し、家の壁に飾った。敏子さんと会ったのは、太郎さんの仕業のような気がしてならなかったのである。僕は、それからずっと毎朝、その写真の二人に感謝を込めて挨拶をするのである。

(11月8日日曜日)

太郎さんと敏子さん


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?