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第156回往復書簡 ばっさり、12時20分

石田千 →  牧野伊三夫さんへ

 月金帳のはじまったころ、美容師さんに、しばらく、じぶんで切りますとメールをした。いらい、ずっと、ざんばら髪をたばねて、ピンでとめて、まとめていた。
 遠出の仕事では、たくさんのひとに会う。髪を結びなおしたり、ほつれた髪がマスクにつくのは、とてもこわい。いまも、外出のときは帽子が脱げない。
 それで、美容師さんに電話をして、できるかぎり短くしてくださいとお願いした。
 3年ぶりに、うかがった。しずかな室内、ほかのお客さんはいなかった。   
 きれいな光がさしこみ、窓のむこうにはユーカリのまあるい葉が揺れている。ずいぶん育ったなあ。
 頭髪のほうは、ユーカリのようにすくすくとはいかず、ほうぼうにのびている。長いところ、みじかいところ、荒れた森になっている。
 シャンプーのあいだ、全身の力みが消えていた。こんなふうに、ゆだねていられるのは、病院のMRIのときだけだった。びょういんと、びよういん。安心して、おまかせできるところが、ふたつになった。
 美容師さんは、問わずに事情を察してくださって、ばっさり切る手前で、なんどか鋏をとめて、今後こういうのもありますねと見せてくださった。世のなかにもどって、帽子が脱げるようになったら、子どものころとおんなじおかっぱも、いいかもしれない。
 そうして、耳もうなじも、すっきりあらわれた。首を振っても、髪は揺れない。
 ふたたびのシャンプーを終えると、床に散っていた髪の毛は、きれいに掃き清められていた。きょうまで、守ってくれて、ありがとう。
 鏡をみると、すがすがしく、おぼつかない。頼りない顔。すてきなショートカットの先輩を、たくさん知っている。みなさんのように、晴れやかな笑顔をめざしたい。
 どうですか。美容師さんにきかれて、あらためて、鏡を見る。
 びっくりするくらい、父にそっくり。
 美容師さんが今年散髪したなかで、切るまえと切ったあとの長さの差が、いちばんとのことだった。そのくらい、ばっさり。牧野さんより、みじかいかもしれません。
 ばっさり、さっぱりして、いつも心配をかけている友だちとお店で落ちあって、お昼を食べた。
 友達は、今月がお誕生日。シャンパーニュで乾杯した。
 そうして、ほろ酔いが助けてくれて、食事のあいだだけ、毛糸の帽子を脱ぐことができた。
 ちょっとずつ、ちょっとずつ、情けないけど、匍匐前進をつづけて、HBギャラリーにいくんだ。
 さいごになってしまいました。牧野さん、ご受賞、おめでとうございます。
 牧野さんは、ますます力強くなっていきますね。

  冬の朝寝ぐせたのしき鏡かな  金町
  (11月金曜日)

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