第65回往復書簡　へんてこバレンタイン②

石田千　→　牧野伊三夫さんへ

　土曜日、6時半。ひと月ぶりに、駅にむかう。
　4時半に起きて、サンドイッチをつくって、冷蔵庫にいれて、マスクは２枚かさねて、洗える帽子をかぶって、洗えるダウンを着て、リュックサックをしょって。綿の手袋をして、緊張して、地下鉄に乗る。窓のあいているところに立って、ななつめで降りた。ひとつの車両に、5人しか乗っていなかった。
　大ちゃんのきょうの体温は、３６・６度だった。いつものように。3時にメールがきていた。電車が動いていない時間から働く。それで、自転車通勤をしている。いまは、寒いだろうなあ。
　うちの会社は、医薬品関連会社ということもあって、緊急事態宣言が出るとすぐに、遠隔勤務がはじまった。さいしょは、既往症のひとと、高齢の家族と同居しているひとが対象だった。
　なるべく会社に来ないこと、どうしても出社の必要があるときは、土曜日の7時から11時に来ること。ありがたい対応のおかげで、無事に過ごしていられる。
　会社では会えないけど、週にいちど、画面ごしにみんなに会える。9人しかいない部内で、遠隔はひとりだけ。そのために部内でみんなそろってパソコンを見ていると思うと、申し訳ないなあと思う。
　じっさい、遠隔で働いてみると、たいていのことに不便がない。会社にいてもいなくても、かわらないんじゃないかな。本人がそう思っているんだから、みんなはもっと、そう思っているんじゃないかな。つい、仲間はずれとひがんでしまう。
　よっちゃんは、ぜんそくもちだから。
　そのひとことで、臨海学校、富士登山、マラソン大会、こどものころからいろんなことができなかった。３０すぎのいまも、たくさんのひとに、守られて、助けられて生きている。だれにも会えないいまがいちばん、自力でしのいでいる。身ひとつを守ることが、こんなにたいへんと思わなかった。朝7時のオフィス街を歩くと、スニーカーの底がキュッキュと鳴る。
　ランチに混みあう洋食店、中華のお店も、お店はつづいていて、よかった。どちらの窓にも、テイクアウトしますの貼紙がある。ワクチンを打てば、いけるようになるのかなあ。夏ぐらいかなあ、まったく想像がつかないまま、守衛さんに声をかけてＩＤを出し、会社にはいった。
　仕事は、10分たらずで終わった。机のうえに積まれた書類を見て、いるものだけをリュックにしまって、不要なものはシュレッダーにかけて、終わった。あとは、みんなの机のうえに、ひとつずつ、チョコレートの包みを置いた。
　いつも書類を転送してもらったりの、ちいさなお礼だった。みんな、忘れないでね。そう思いながら、置いていく。なんだか、サンタクロースか、笠地蔵さんみたいだった。
　中学のころ、好きな男の子の机のなかに入れようと思って、やっぱり朝早く学校にいった。そっとのぞいたら、もう3個も入っていたから、入れないで食べちゃった。朝から、泣いたなあ。
　配り終えて、帰りがけにトイレにいって、厳重に手を洗っていると、となりの部の沢田さんに会った。
　……ご無事ですか。
　……なんとかね。じゃあ、引き続き、がんばろうね。
　沢田さんは、高齢のご家族がいらっしゃる。だれにも会わないと思っていたから、ものすごくうれしかった。がんばろうね。沢田さんの声をリアルできけて、うれしかった。
　ここから、よっつ乗ると、大ちゃんの駅なんだけども。ほんとうはポストに入れにいきたいけど、不要不急の外出をしたら、きっといやがる。また地下鉄に乗って、もどる。改札を出ると、ほっとして、手袋をはずした。
　駅前スーパーは、8時開店。入口で、手にアルコールをつける。そばで、店員さんが、特売のバナナをきれいにならべている。ひさしぶりに、バナナジュースがのみたくなった。大ちゃんの大好物で、3杯も飲むから、いつもバナナは買っていた。会わなくなって、ほんとうにひさしぶりのバナナだった。
　リュックサックに、牛乳、ヨーグルト、バナナ。歩くと背骨にバナナがあたって、ツボ押し作用がある。
　給食では、はんぶんに切ったバナナだった。あれが出ると、男の子たちが替え歌をうたって、からかうんだった。
　よっちゃんはね、バナナがだいすき、ほんとだよ。
　あの歌は、さみしい歌詞があって、あんまり好きじゃなかった。

　よっちゃんはね、お仕事大好き、ほんとだよ。
　だけど、ぜんそくだから、土曜日しか会社にいかれないんだよ。
　つまんないね、よっちゃん。

　よっちゃんはね、大ちゃんが大好き、ほんとだよ。
　だけど、ぜんそくだから、1年も会えずにいるんだよ。
　なさけないね、よっちゃん。

　替え歌を考えはじめたら、きゅうにリュックが重くなった。うなだれて歩いていると、あなた、だいじょうぶですか。犬の散歩をしているおばさんに、声をかけられてしまった。
　交差点で立ちどまると、シマネコ運輸のトラックが通った。よっちゃんのいいところは、くいしんぼう。大ちゃんが、いつもいう。背なかのバナナが、つつく。このずっしりが、みんなお腹にはいるから、無事でいる。すごいことよねえ。
　神社のひなたに、白梅が咲いている。ダブルマスクで、香りはわからないけど、満開でおめでたい。
　
　よっちゃんはね、バナナが大好き、ほんとだよ。
　いまはおっきいから、バナナを三本だって、食べられるんだよ。
　がんばろうね、よっちゃん。

　（２月19日金曜日）